おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

「通うのが楽しい」という心理

わたしたちが仕事のある日は毎日職場に向かうように、子供達は毎日学校に通っています。部活に入っていれば、休日も両方。大人が職場で過ごす以上の時間を、学校で過ごしている子もたくさんいるでしょう。彼らにとって、学校というのは、生活のかなり大きな要素を占めるものです。

 

わたしが中学生のころ。学校とは、行きたくない場所でした。学校に行くことを思うとお腹が痛くなる。泣きたくなる。不機嫌になる。起き上がれなくなる。手を無理やり引かれても、校門の前で足が止まってしまう。心だけでなく、体が拒否していました。空気を読んで、みんなと同じことをするのが苦手でした。そのせいで集団に馴染めなくて、排斥されて、それがとても怖かったのです。

高校も、それが理由で、わざわざ単位制(授業によってクラスが違う、大学のような制度)を取り入れている学校を選びました。毎日同じメンバーで授業を受ける普通の高校では、うまくやれないと思ったのです。

そんなわたしが今、毎日仕事に行くのが楽しみだと思っているなんて、ふしぎなことです。毎日同じ場所に行って、毎日同じ人と会う。やっていることは中学生のころと大して変わらないのに、それをゆううつだと思う気持ちがないのです。なんでだろう。

 

仕事柄、中学生と接することが多くなりました。彼らと話をしていて、驚くことがあります。わたしは「学校なんて行きたくないのは当然だ」と思っていたのですが、彼らの多くは、「学校に行くのは楽しい」となんの疑いもなく言うのです。なんでだろう。

 

とても不思議です。

自分が仕事で、固定された集団の中でそれなりに楽しくうまくやれていることも。しかしそれが、多くの中学生(そして多くの人)にとって、疑いもなく当たり前であることが。

 

わたしはやはり、「学校なんて行きたくないはずだ」「同じ場所に毎日通うなんてつらいはずだな」と思います。だからこそ、「通うのが楽しい」と感じることは、本当はとてもすごくて、幸せなことです。

その幸せを噛み締めながら、明日も出勤しようと思います。

芍薬の花がさきました。

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先日、駅ナカの花屋さんで「さよなら芍薬フェア」をやっていました。そうか、そろそろ季節も終わるのか、と寂しく思い、二輪購入。ロフトで買った700円の花瓶に活けていました。

 

買った当初はかたく蕾が閉じていたのですが、数日経った今は、ふんわりと花が開いています。ひらひらと薄く桃色がかった華やかな花びら。その反面、青々としてしなやかな強さを感じさせる茎や葉。「立てば芍薬…」とは美しい女性の形容ですが、女性とは華やかさとしなやかさ、強さを兼ね備えたものであるという感じがします。

 

それにしても、毎日水揚げをし、栄養剤をやり、まめまめしく世話をしていると、心が安らぎます。続けたいものです。

立てば芍薬座れば牡丹

【詞書】

 

立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 

 

最近、花屋さんを通りかかると店頭に芍薬が並んでいます。その度にこの有名なフレーズを思い出します。何をしても凛として美しい、そんな女性が理想です。

 

わたしは姿勢には自信がないけれど、姿勢の良さには自信があります。

もともと幼い頃から猫背を指摘されることが多く、今でも気を抜くと肩は丸まり、下腹部を前に押し出すような情けない格好になってしまいます。

しかし、学生時代にとある縁で正しい歩き方を教わったことがあって、意識した姿勢の良さには自信があります。腹筋でしっかり上体を支え、背筋をしゃんと伸ばし、その上に頭を乗せ。座っているときもそうで、意識していれば、「姿勢がいいね」とよく褒められます。そこで、出来るだけ良い姿勢を意識し、維持することを日々心がけているのです。

 

 ところが。

仕事が忙しくなると、なかなかその姿勢を保つことができません。気づくと頭の重さに耐えかね、顎が前に出てしまいます。そうした気の緩みは姿勢だけでなく、その他もろもろにも現れ。疲れた日のわたしは、キューティクルの整わないぼさぼさの絡まりきった髪をひとつにまとめてごまかし、微妙な化粧と磨り減ったかかとの靴で歩いています。

忙しいと、生活のクオリティが下がります。

今週も忙しく、毎日14時間ほど働いていました。下手をすると夕飯も、髪を洗うのもめんどくさい。いらいらして、お菓子ばかり食べて肌も荒れる。コンタクトを長時間つけていて、目の調子もなんかおかしい。

 

昨日ふと触った頬がざらざらしていて、髪が毛玉のようになっていて、これではいけないと危機感を覚えました。お風呂上がりにパックをして、ちょっと入念にトリートメントをしたのは昨日。すると髪が久々にするすると指通りよくなり、朝目覚めたときから気分良く、いい感じのスタートを切ることができました。やはり、身なりに気を使うことは自分のためにも大切です。改めてそう感じた1日でした。

 

久々にトリートメントした髪を風になびかせ今朝、百合になる

夾竹桃には毒がある。

【詞書】 

夾竹桃は、道端を歩いていると必ず目にするほど、メジャーな植物です。この時期には鮮やかな桃色の花を咲かせます。なかなか美しいもので、千葉市広島市などでは市の花として愛でられているものです。

 

その夾竹桃を目にするたび、わたしは小学生のころに見たテレビ番組を思い出します。あの頃、バラエティ番組で夾竹桃の危険性について取り上げられているのを何度も見ました。その中でも思い出深いのが、「バーベキューをしていて、箸の代わりに夾竹桃の枝を使った若者が、熱によって溶け出した毒でしんでしまった」というものです。そんな恐ろしい植物が当たり前のようにそこらに生えているなんて。間違えて食べたり、折った枝を舐めたりしたらどうなるのだろう……と、底知れぬ不安感に苛まれたものです。

 

私にとって、夾竹桃は、死のイメージと密接に関わるものでした。死とは、あのきれいな桃色の花びらに隠れて、虎視眈々とこちらを窺っているもの。だから、足元を掬われぬよう、警戒しなければならない。迂闊に手を出すと、夾竹桃の毒性にやられて、命を落としてしまうわけです。

 

私は今でも、夾竹桃を見ると、死というものに思いを馳せます。

 

今朝、職場に向かう道すがら、桃色の花を咲かせた夾竹桃を目にしました。先週の疲れが未だ抜けず、なんだか風邪も引き始め、仕事は全然終わっていない、ゆううつな朝です。せっかく空は晴れて爽やかな風が流れているというのに、気づけば視線は爪先、もしくはスマホの画面。かかとの磨り減ったパンプスでかつかつと情けない音を立てながら、他の人の半分くらいの速さで歩みを進めていました。横断歩道に差し掛かり、ふと視線を上げると、視界の端に桃色が揺れたのです。かわいらしい花を咲かせた、夾竹桃が。

 

「この花を食べたらどうなるんだろう」

例によって、私は考えました。

「このきれいな花を食べてしぬなら、悪くないかもしれない」

例によらず、肯定的なイメージを持ちました。

そしてそのことに、はっとしました。

 

夾竹桃の花に、毒性があるのかはよく知りません(きっと枝だけ)。けれど、もしあの花びらに、その外見からは想像もつかないような毒が秘められているなら。

あの薄い花びらをくしゃりと噛んで、花びらの苦味と蜜のささやかな甘みに眉をひそめ、しゃくしゃくと咀嚼し、嚥下して。そしてそのちょっとした気まぐれによって、羽を伸ばし、この重苦しい世界から飛び立てるのだとしたら。

まあ、それも悪くはないなあと、そう思うわけです。

すっかり、大人になってしまいました。

 

砂糖菓子みたいな色の夾竹桃 口に含めば楽になるかな

 

 

 

母について思うこと。

私の母は、かわいそうなひとです。

 

母は、厳しい祖母と優しい祖父のもとで育ちました。祖母は「手に職をつけなさい」と母を家政系の短大に行かせ、卒業後は祖父の口利きで大手企業の一般職に就職。同期の若い女の子達と合コンやイベントやサークルに勤しみ、そこである男性に出会いました。一流大卒で、背は高く、鼻も高く、スマート。一部上場企業に入社して、将来有望。しかも年下。今まで女性経験がなかった彼は、恐らく母にころっとやられ、そして結婚しました。それが父です。

父と母には、子供が三人生まれました。家を建て、安定した生活が始まります。母も好きな事を仕事にし、充実した日々を送っていました。

 

暗雲が垂れ込め始めたのは、祖父が認知症になったころです。(祖母は早くに亡くなっていました。)認知症の祖父を介護するために同居し、ヘルパーの資格も取りましたがやはり限界があり、グループホームで生活してもらうことに。そして母は、仕事を探してフルタイムで働き始めます。

それと同時期に、父が家を出て行きました。愛人と暮らすためです。

 

 家庭も、子供も、そして何より親の介護でつらい思いをしている自分を見捨てて、父が愛人を選んだ。母のプライドは傷つきました。しかも父が選んだ相手は、年こそ母より若いものの、顔はいまいちだし、太っているし、派遣なのです。何がいいのかわかりません。だからこそ、深く深く傷つけられました。

 

一度は「親権なんていらない」とお互いに押し付けあいましたが、母はやはり子供を育てたいと決めました。子を育てるのには、お金がかかります。そこで母は「子供のために」離婚しないことを決めました。

父には婚費を請求し、養育費をいくらにするかも調停で争い。その後も調停から家庭裁判まで争い続け、婚費を貰い続けました。

その間も、子供達は母の苦労も知らずに不登校になったり学校でいじめられたりネットで知らない異性とやり取りをしたり、その対応に追われます。ようやく解決して大学に行かせた娘が、今度は母の苦労も知らずに恋人をつくり、浮かれたそぶりを見せたりする。配慮がないのです。「彼の家に泊まりに行きたい」というので、今まで設けていなかった門限を設けました。何かあったとき、傷つくのは娘だからです。クリスマスも出かけていたので、「家族と過ごすものだろう」と叱ってやりました。実家で暮らしている以上は、家主である母の言うことに従うのが当然です。「それなら一人暮らしをする」と娘が言いましたが、「彼と暮らすなら縁を切る」と行って阻止しました。娘は最終的には、母を悲しませるようなことはしないのです。

 

ある日娘が「彼が、お母さんと私の関係は変だっていう」と相談してきました。「私もそんな気がするけど、どうなんだろう」と。娘にそんな悩みを持たせるその男に腹が立ちました。「別れればいいじゃない」と何度も言っていたら、ぎくしゃくしだしたらしく、娘は別れました。彼は未練がましくしていましたが、母が出て行って、別れさせました。娘には会わせませんでした。

 

かて、父との離婚争いが十年ほども続いたころ、娘が「もう別れてもいいんじゃない」と言いました。確かにその頃母には恋人がいましたが、その人と結婚は考えていませんし、何より離婚しないのは子供のためなのです。裏切られた気持ちになりました。「あなたのためにこんなに苦労しているのに、そんなこと言わないでよ」と泣いてしまいました。

 

やがて子供達がみな高校を卒業し、ようやく離婚を成立させました。大手を振って恋人と遊べるようになり、母はしょっちゅう旅行にいき、イベントごとは彼と過ごすようになりました。クリスマスも、お正月もです。

 

最近、娘が「結婚したい」と言い始めました。相手は、なんと自分を「変な親だ」と侮辱した彼だそうです。信じられない。裏切られたような気持ちになって、聞いた瞬間に泣いてしまいました。「私を変な親だって言った男と結婚するの」と聞いたのに、娘は「変な親だよ」と逆に言ってきます。「それなら彼に謝ってほしい、私に失礼なことを言ったんだから、親として言うべきことがある」と言うと、「彼も謝るために、会いたいって言ってるよ」と。「二度と会いたくない、顔も見たくない、それでも彼を選ぶなら好きにして」と言ったら「好きにしていいなら好きにするけど」との答え。なぜこんなに娘のためを思ってやってきたのに、裏切るようなことばかり言うのかわかりません。

 

自分は悪くないのに旦那には捨てられ、女手一つで育てた子供も自分への理解が足りない。だから、母はかわいそうなひとなのです。同情の余地があります。

誰に話しても「女手一つでそこまで育ててくれて、おかあさんに感謝しなさい」と言われます。たしかにそうかもしれません。

感謝はしていますが、だけど私は、自分は母の「かわいそうさ」のあおりを一番受けていると思います。母は自分がかわいそうだから、誰かに認めて欲しくて、報われたいのです。認めるのも、報いるのも、私の役目なのです。でも、そんなことを言ったとしても、「私にどうしろって言うの」と泣き出すので、何も言えません。 ただ、「おかあさんは自分のできることを精いっぱいやってると思うよ」とぬるま湯のような言葉をかけるだけです。

 

母には反抗できません。私は母と自分との関係を考えれば考えるほど、母の「かわいそうさ」と、そのフォローを強いられてきた自分自身を見比べ、釈然としない気持ちになるのです。

ありのままの自分でいられない。

お題「好きな短歌」といえば、これ。

 

 「すきすき」はきらい「うそうそ」ならほんと2回言ったらさかさまの刑(伊勢谷小枝子)

 

 

少し前、「ありのままの姿見せるのよ」という歌詞が一斉を風靡しましたけれども。私は「ありのまま」でなかなかいられない人間です。

人と交流するうえで一番恐ろしいのは、ありのままの自分を否定されること。

 

中学生のころ。私は学級委員をやったり部活の副部長をしたり、勉強も得意。友人もいて、楽しい学校生活を送っているつもりでいました。教室にはあまり居場所はなくて、ひとりで本を読んでいることもあったけれど、特に気にしていませんでした。ですがそれは装おった自分の姿で、友人に囲まれて盛り上がっている人たちは羨ましかったし、行事の中心になっている人たちはまぶしく見えました。そういう集団の盛り上がりと、自分とは、一線を画したものである感覚がありました。

本当は集団になかなか適応できないところがあるのだけれど、自分も他人もそれを認識していなくて。ぐらっと崩れたとき、その素が出てきて、そして学校に行けなくなりました。

不登校になる要素を孕んだ、集団に不適応な子ども。それが当時の私の、「ありのまま」でした。

 

ところが母はそんな私を受け容れることができなくて。十年近く経った今でも覚えています。

 

「あなたが家にいると嫌だから、お金をあげるから昼間は外で遊びなさい」

「おばさんに連絡してあるから、電車に乗ってそこまで行きなさい」

「そんなふうに育てた覚えはない」

 

そうした言葉をかけられて、そして傷つきました。自分の素の姿は、自力ではなかなか変えられないものです。その、変えられないものを否定された時のダメージは、大きい。私はそれから、ありのままの自分を否定されるのが怖くて、自分の思うことをますます言えなくなりました。

 

今でも、その片鱗はあります。自分の思うことを素直に表現するのが苦手。もし素直に表現して、そして「そんなのおかしい」とか「理解できない」とか言って否定されるのが、それで傷つくのが怖いのです。

 

「すきすき」なんて軽々しく言える相手のことは、ほんとうは嫌い。

「うそうそ」なんて冗談めかして言えることこそ、ほんとのこと。

 

そんなあまのじゃくな自分には、「さかさまの刑」を与えてやりたいとおもう。「さかさまの刑」という言葉はなんとも可愛らしくて、自分を責める厳しい気持ちを、和らげてくれる気がします。

卒業式は、「病んだ少女」からの卒業だった。

今週のお題「卒業」について。

小学校、中学校、高校、大学と「卒業式」なるものは人生で4回ほど経験してきた私ですが、何よりも印象深いのは、中学校の卒業式です。

あれは、ただ義務教育を修了したというだけではなく、もう少し意味のあるものでした。

 

「病んでいる」という状態をどう定義するかは難しいですが、中3の私には、年不相応に大人びて見せるところがありました。比較的落ち着いた学校だったのですが、体型や髪型と言い、服装と言い、校風にそぐわないものでした。私生活も同様で、20代前半のある男の人と仲が良く、塾をサボって彼の車であれこれしていました。(彼の名誉のために言っておくと、厳密には、「手を出され」てはいません。一線は、いちおう越えなかったので。)

 

父に捨てられ(と、当時は思っていました)、母も頼りにできなかったその頃、私が頼りにできるのは学校や塾の先生たちだけでした。しかし、先生もお仕事。構ってくれと言えば構ってくれますが、他の子が構ってくれと言っても構っています。愛に飢えた私にとって、それでは物足りなかった。誰かに自分だけを見てもらって、べたべたに甘やかされたかった。それにちょうど都合よく当てはまったのが、その男性との関係でした。

 

荒んだ書き方をしてしまいましたが、あの頃はとても楽しかったです。若くてイケメンで、女の子にももてるような男性が、私のことを構ってくれるのです。その優越感たるや。「好き」とか言われて、平日の仕事終わりにも、休日にも会ってくれる。車の助手席に乗って、信号待ちのときに手を握る甘やかさなんて、今でも思い出すと少しうっとりしてしまいます。「つき子が卒業したら、俺たち、ちゃんと付き合うんでしょ?」と言われたりして。少女漫画みたいな、そんな感じでした。

それはそれで思い出として美化されていますが、しかし、不健全であることに変わりはありません。今私が彼と同じ年齢になってみると、中学生なんて恋愛どころか、性愛の対象にすらなりません。本気(かどうかわかりませんが)で「付き合うんでしょ?」とか言ってる男性もちょっと変だし、そうでなければ私がよほど年齢に見合っていなかったのでしょう。何にせよ、普通でないことは確かです。

 

 その「普通でなさ」に気づいたのは、中学校の卒業式のときでした。式の後、制服のままで、彼とのツーショットを母に撮ってもらったのです。そういうことをしても、不自然ではない相手でした。

母が、嬉しそうに携帯のカメラをこちらに向ける。私も彼も普通にし並んで立っていますが、ふたりの間にあるものを、母に告げることは絶対出来ない。祝福されるべき卒業式なのに、どことなく漂う背徳感。そこに、違和感を覚えました。

そして、シャッター音。なぜだかわかりませんが、彼への気持ちは、そのシャッター音と共に、区切りが付いてしまいました。

 

中学を卒業してからも何度か彼に会いましたが、その頃のようなときめきも、どきどきも何にもなくて。車に乗るだけであんなに嬉しかったのに、それすら面倒臭くて。彼との関係は、中学時代の遺物だったのでしょう。私の心は、これから始まる新しい学校生活にすっかり奪われていました。高校に入ってからも、「年上と付き合ってる」なんて言ったら変な目で見られそうで。結局、入学後は一度も会わず、連絡を絶って関係が終わりました。

 

何故、卒業したら彼に魅力を感じなくなったのか。今でも疑問に思います。あのまま一緒にいたら、今頃どうなっていたのだろう、とか。

理由は謎のままですが、少なくとも高校からは、比較的「健全」な路線を歩んでいます。私にとって、不健全なルートから舵を切ったタイミングである中学校の卒業式こそが、「『病んだ少女』からの卒業」なのでした。