おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

「よく真っ直ぐ育ったねえ」

 

大学の心理学で、ステレオタイプという言葉を習ったことがあります。固定観念

 

私は、自分は偏見なんて持ち合わせていないと思っていました。ところが、日本人は礼儀正しいとか、A型は几帳面だとか、「◯◯な人は△△だ」みたいなステレオタイプは世の中に溢れています。私も当然のように持っていました。その講義を受けた時、自分のものを見る目の狭さに驚き、目から鱗が落ちたような気持ちになったものです。

 

誰でも、そんな風にして何かを決めつけながら生活しています。悪いことではありません。今までに積み重ねた経験の中から「この人はきっとこんな人だろう」と予想して、コミュニケーションを取っていくのは当然のことです。

ただし、自分がそうやって、相手にレッテルを貼りながら会話をしていることには気づいておくべきではないでしょうか。

 

私が、「中学生の頃に不登校だったんです」と言うと、必ずと言っていいほど、

「よく真っ直ぐ育ったねえ。」

と、褒められます。言った人はもちろん、私のことを賞賛してくださっているのです。それ自体は、ありがたいことです。

 

 でも「真っ直ぐ育ったねえ」という言葉には、違和感を覚えます。なぜならその言葉の裏には、不登校の子って、どこかが変なはずだ」というステレオタイプがあると感じるからです。

 

 私は自分自身も不登校でしたし、同じ境遇の友人もいます。ボランティア活動などで、不登校の子どもたちとも関わってきました。

たしかに、中には趣味に没頭するあまり他のことが疎かだったり、集団よりもひとりでいることが好きだったり、人と話すとき緊張しすぎてしまったりと、変わったところのある子もいます。逆に、「この子がどうして不登校なの?」と大人が口を揃えて言うような子もいます。

 

趣味に没頭するあまり他のことが疎かな人。

集団よりもひとりでいることが好きな人。

コミュニケーションをとるのが苦手で、緊張しやすい人。

こういう人って、あなたの周りにもいるのではないでしょうか。そういう人たちがみんながみんな、不登校だったのでしょうか。

 

「変わった人」は、どんな集団にもいます。「不登校だから変わっている」のではなく、「どこにでもいる変わった人が、たまたま不登校になった」のです。

 

 「不登校だから、社会に不適合なところがあるだろう」と決めつけてしまう見方が、私は好きではありません。そういう一面もあるかもしれませんが、大人になるにつれ、学びを通して自分なりに、うまく生きていく術を身に付けることはできるのですから。

私は不登校でした。

 

不登校になる子」って、どういう子だと思いますか?

人間関係が作れない子?

性格が暗い子?

勉強がきらいな子?

「どういう子?」と聞かれて、プラスのイメージが湧いてくることは少ないでしょう。不登校って、一般的には、かなりの色眼鏡をかけて見られるものです。

 

仕事で知り合った方に、「私は不登校だったんです。」と自己紹介をすると、驚かれます。

驚かれるということは、少なくとも今の私は、「不登校」から連想されるマイナスのイメージをあまり持っていないということです。

まあ、毎日休まずに仕事をしていますし、ね。

 

そもそも、不登校とは何なのか。文部科学省の定義があります。

 

何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童・生徒が登校しない、あるいはしたくともできない状況にある者(ただし、「病気」や「経済的な理由」による者を除く。)」

児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査-用語の解説:文部科学省

そして、年間で30日以上欠席した子のことを、「不登校である」というのです。

 

私は不登校でした。

中学2年生の冬頃から中学3年生に上がるまでは、全く登校せず。

理由は、ありがちないじめです。

クラスの子に徹底的に無視され、机に落書きをされ、何か言うと笑われ、そんなことが続いた結果、クラスにいることが苦痛になりました。

 

たしかに、当時の私は、「不登校になりそうな子」「いじめられそうな子」だったかもしれません。

おしゃれに気をつかっていなかったので、髪はぼさぼさだし、分厚い眼鏡をかけていたし、見た目はいまいち。運動はできなくて、仲の良い特定の友達とつるんでばかり。休み時間には、ひとりで本を読んでいることもしばしば。コミュニケーションが下手で、空気を読んで笑ったり話したりできない。

などなど。

 

その後転校したり、いろいろな支援を受けたりした結果、3年の夏頃まではちょこちょこ出席日数を稼ぎ、秋以降はほとんど毎日通い、何とか全日制の高校に進学できました。

 そして今では、「不登校でした」と話すと、「え、そうだったの?」と驚かれてしまうような人間になっています。

 

自分の子どもが不登校になると、お父さんやお母さんは、「この子の人生は一生このままなんじゃないか」と心配になると思います。

自分自身が不登校の子は、「今さら学校に行ったって、お先真っ暗だ」と絶望的な気分になる日もあるでしょう。

 

でも、小中学生の頃に学校に通わなくたって、いくらでも挽回はできるのです。

人生80年の時代、平均寿命はますます伸びようとしています。そんな長い人生の中で、たかが数年間学校に行かなかったからって、そんなに大きな変化があるでしょうか。

大学に入ろうとして、浪人する人だっています。留学して、1年卒業が延びる人もいます。1年や2年のブランクは、大人になればなるほど、そんなに意識されないものです。

 

だから、大丈夫。

学校に行けない時期があったって、大人になれば幸せになれます。

それは、私が身をもって証明しています。

朝ごはんを食べる時間の確保が課題。

今週のお題は「朝ごはん」。

 

私の理想的な朝食は、窓から明るい光が射し込む爽やかな朝に、美味しいご飯。食べたあとに天気予報を見ながら、ゆっくりコーヒーを飲むことのできる、そんな優雅なひとときです。少しずつ心と身体を目覚めさせ、仕事に向けて高めていく時間。

 

現実は、とにかく栄養をお腹に詰めて、午前中のエネルギーを補給する時間となっています。

 

起床は6時。

(この時期だと外はまだ暗いので、窓から光はろくに射し込まない)

ご飯は前日の夕飯の残り。

(レンジでチンするのは虚しいし、眠いから味があんまりしない)

家を出る時間が7時。

(天気予報は見るけど、優雅にコーヒー飲む時間なんかない)

 

理想とはかけ離れた現実ですが、食べないと昼までにお腹が空いてしまうので、仕方なく食べています。

 

さらに困るのが、朝なかなか起きられなかった時。

 

最近は寒いので、布団から出るのが億劫です。また、忙しい日が続くと、睡眠が充分に取れないから起きられません。

 

10分、20分…と起床時刻が延びた場合、真っ先に削られるのが、朝ごはんを食べる時間。

全てを混ぜてとにかく口に運び、仕事に間に合うように、途中でも食べるのをやめて出発します。食べきれなかったご飯を処分する瞬間がたまらなく悲しい。

 

私の今の課題は、ゆっくり朝ごはんを食べる時間を確保することです。

欲を言うなら、コーヒーを飲みたい!

 

そのためには、朝5時半には起きたいところ。

(しかし実際には早く起きたら早く家を出て、仕事を始めると思います。激務。悲しい。)