「ふつう」と「ふつうじゃない」の狭間で。
「ふつう」でありたいと、人は願います。
せめて、人並みの給料がほしい。せめて、人並みの休みがほしい。せめて、人並みの幸せがほしい。そんなふうに、私たちは願います。
「ふつう」を辞書で引くと、「特に変わっていないこと」とあります。他の大多数のものと、変わりがないこと。その点で言うと、「不登校である」状態は普通ではないでしょう。ほとんどの小中学生は、何の疑いもなく毎日学校に通っているわけですから。
中学生時代に不登校を経験した私は、自分が普通ではないと思っています。当時よりはうまく生きる術を身に付けたとはいえ、内面的なものがまるっきり変化したわけではないので、まだ普通ではない部分を持っています。
自分が普通だったらなあ、と思うこともあります。もし、家庭にも学校生活にも何の問題もなく、親の愛情を浴び、友人と円満な関係を築き、集団生活に自然と馴染める普通のひとであったならば。もっと楽に幸せになれたのかもしれないのに、と。
私は、今の自分のことが好きです。今の自分は、過去の自分の積み重ねです。不登校でなければ、今の私はいません。その点で後悔はしていないし、過去の自分を否定する気もありませんが、しかし「ふつうの人だったらなあ」という気持ちはあるのです。
私は今も、普通を願っています。
今の願いは、「ふつうの家庭を築くこと」。
私の家庭は片親で、しかも母は鬱っぽい時期もあり、親に甘えることのできない状況でした。だからこそ私は、普通の家庭を築きたいのです。
普通の家庭で育つことのできなかった私の考える、「ふつうの家庭」には、夫婦仲が良く、愛し合っていて、子どもは親に甘えられるし、わがままを言える信頼関係があります。それにお金にも困らなくて、休日はみんなでどこかへ出かけて楽しい時間を過ごすものなのです。そこには悩みもなく、精神的な不安定さもありません。
そんな家庭って、果たしてあるのでしょうか。
きっと私の想像する「ふつうの家庭」は、普通ではありえないような、とても幸せな家庭なのでしょう。
でも、自分の家庭を「ふつうじゃない」と思っている限り、「ふつうの家庭」には、自分の抱えている問題はないように思われるのです。
これは、何においても言えることで。
不登校であることを「ふつうじゃない」と思っていると、「ふつうの人」は何の問題も抱えていないように思えるでしょう。普通の人たちは、勉強もできて、人間関係の悩みもなく、学校が楽しいのだろう……と。
そんなことはありません。
学校に通っている子たちにも、勉強の悩みもあれば、人間関係の悩みもあります。そうした悩みがあるのは、普通のことです。悩みが深くなった結果、不登校になってしまうのも、普通のことです。
そんなに重く受け止める必要はないのです。