野生に生きている。
と、思う。
たしかに今わたし達は文明が発展した世界に住んでいて、野生とはかけ離れた生活をしている。
動物を追いかけて、槍でやっつけて、石を割って作った刃で肉を処理して食べていたあの頃。木の実を拾って食べ、掘って作った穴の中で寝ていたあの頃。服も風呂もまともになくて、動物と同じにおいを漂わせていたあの頃。
あの頃の彼らと今のわたし達との生活は、無論、ぜんぜんちがう。
だけど、不意に思うのだ。
わたしはやはり、野生に生きる動物と同じなんだな、と。
情緒不安定になる。なにかを食べたくなる。出血する。さらに情緒不安定になる。それがおさまる。しばらく経つ。やたらと肉体的欲求が高まる。それがおさまる。情緒不安定になる。
毎月、決まった日数で、このサイクルが循環する。ストレスがあれば、そのサイクルは延びる。からだは精神に素直で、精神はからだに素直だ。からだのサイクルを止めることも、それに伴う精神のサイクルを止めることも、わたしの意思ではできない。そしてそのサイクルは、繁殖のためにあるのだ。
なんて、野生的なんだろうと、思う。
文明は進歩し、日本では平均初婚年齢が上がった。子どもを作らない選択をする者もいる。なのにわたしのからだは、まだ結婚することもできない十代のころから、今に至るまで、そしてしばらく先の未来まで、繁殖のためのサイクルを回し続けるのだ。
アメーバが分裂して増えるように、動物が子をなすように、人間という種も存続のためには繁殖しなくてはならない。たとえ世の中がそれを至上の命題としなくなっても、からだはそれをわかっている。だからただ、サイクルを回すのだ。
黙々と。
からだの外側に広がる、わたしの人生など、なんの意味もない。
たとえわたしが結婚しようと、しなかろうと、仕事に生きることを決めようと、職を失おうと、食いに困ろうと、何もかもを諦めようと、何も関係ない。
からだには、その目的が達成されないこともわからない。
ただただ、繁殖するためのからだを整える、それだけのために毎月毎月同じ変化を起こしているのだ。
そのせいですっごくイライラするし、今日は情緒不安定で何度も泣きそうになったし、具合はわるいし、こんな辛い思いをして、今すぐにつくるわけでもない子どものための準備をしているなんて。
わたしのからだは、ほんとうに、野生に生きているのだと思う。しんどい!