おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

行動しないと、居場所は得られない。

私は常々、人には居場所が必要だと考えています。居場所とは、そこにいる人が自分のことを拒絶しないとわかっていて、居心地が良く、安心できる空間や集団のこと。そして、精神の安定のためには、居場所は複数必要であること。居場所はひとりでいることも含むけれど、それだけでは不十分で、やはり他者からの受容が欠かせないものです。

だからこそ今の学生(特に中学生、だと思っていますが)は大変だと思うのです。朝8時に登校し、部活動が終わるのは夕方。そこから家に帰り、塾(学校の友達も通っている)に行き、帰宅して寝る。起きたらまた学校。居場所の中心が学校と家庭しかなくて、無関係な習い事でもしない限り、そこから広がっていかないのです。これでは、学校が居場所でなくなった瞬間、居場所の大半が失われてしまうのです。居場所がないほどつらいことはありません。

 

子供には複数の居場所があった方がよいと考えているわけですが、ふと、自分の居場所はなんだろうと振り返ると、ずいぶんと寂しいものでした。

・自宅や家族

・職場

・同期(同業者)

・大学の友人(同業者)

・サークルの仲間(同業者)

これだけです。しかも仲良くしているのは同業者ばかり。環境が似ているほど話も合うので当然と言えば当然ですが、仕事がなくなったら、もう私に居場所はないのかもしれません。そう思うと、なんとも言えない危機感に駆られました。

居場所を増やすと言っても、今の生活をそのまま続けていたら、増えるのは仕事のつながりばかりです。それはそれで人脈としては貴重ですが、ますます仕事への依存度が高まってしまいます。

依存度が高いということは、なくなったときのリスクが高いということ。仕事など精神を病んでしまったら辞めざるを得なくなりますから、そのとき居場所が他にないと、ますます精神的につらくなってしまいそうです。恋愛もそうですが、ひとつのことに依存するのはあまり良くない気がしています。(浮気をするという意味ではなくて。)

 

そこで、ウクレレを習い始めました。マンツーマンのレッスンですが、続けていると受講生同士の発表会もあるようです。同じ趣味をもつもの同士、互いに居場所になれるのではないかと期待したのです。

あるいは、単発の習い事をするようになりました。継続性はないけれど、同じことに関心をもつもの同士、集まって活動している間は居心地の良さを感じるからです。

また、美容院やカフェなどは、同じお店に繰り返し行くようになりました。別に常連になって店員さんと仲良くなりたいわけではなくて、ただお店の雰囲気や方法に慣れていると、落ち着いた気持ちで過ごせるからです。

こんなふうにブログを書いているのもそうで、もしかしたらそのうち、似たようなことを考えている人と緩くつながれるかもしれないという淡い下心があるのです。あるいは、同じように日記めいたブログを書いている人がたくさんいるというそれだけで、ささやかな仲間意識のようなものを感じます。

 

「受け容れてほしい」という言葉はとても受動的ですが、実のところ、居心地の良い場所は自分から行動しないと得られないものなのかもしれません。正直、新しいことを始めるのは不安で、億劫で、あまりしたくありません。でもそこに飛び込んで、仕事だけではない、新たな居場所を得ていくことが自分にとって必要なのだろうと思います。