おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

納得のいかないこと

学校に行けないことに対して、本当に何の気兼ねももっていない子どもは、そう多くはないと思います。やはりどこか後ろめたさを感じていたり、表向きは気にしていないように見えても、なんとなく落ち着かない気分でいたり。全く気にしないのならそれはそれで良いのですが、どこか引っかかる気分でいるということは、つまり心のどこかで学校に行けない(行かない)自分を否定しているのです。

うまくいかないとき、自分で自分を否定するのはつらいものです。でも、精神的に余裕のないひとが、自分で自分を許すのは、難しいものがあります。だから、うまくいかないときには、そんな自分を他者に肯定してもらう必要があるのではないでしょうか。

 

肯定できる他者とは誰か。「学校においでよ」と言うのは、肯定ではありません。それは行けない自分を追い詰める、責める言葉です。行けるならとっくに行っています。友達がいくら誘ってくれたって、それはあまり励みになりません。

保護者がその役割を果たせればよいですが、自分の子はかわいいものです。子どもに幸せになってほしいと願っていると、「そのままでもいいんだよ」という言葉をかけられないこともあるかもしれません。学校を休んでいれば友達とも疎遠になるし、成績も下がります。高校だって行けないかもしれません。そんな心配をすると、おいそれと「そのままでいい」などと言うことはできないのではないでしょうか。

スクールカウンセラーの先生などは、きっと受容の言葉をかけてくれることでしょう。しかし、カウンセラーの先生とつながることができるのも、全ての子供ではありません。そこまでではないから必要ない、と自分の現状を認められなければ、そうした機会も得られないのです。

 

どんな子供でも何らかの形で関わるのは、現状、学校の先生です。学校に行けばいるし、休めば、例え会えなくても家庭訪問をしてきます。子どもにとって先生とは学校を代表する存在であり、その先生が「つらいなら行かなくてもいいよ」と言ってくれたら、安心するのではないでしょうか。

納得いかないのは、実際に現場の先生が「つらいなら……」という声かけをするのは、見捨てられたと保護者の方に誤解されたら困るからタブーであると、内部から批判されていることです。あるいは、来なくていいよと声をかけると本当に来なくなってしまうから、言ってはいけないと言われるそうです。私はもし一時的に学校に来られなくなったとしても、先生が味方であるという姿勢を示して、安心感を与えることの方が重要なのではないかと考えているのですが、立場上それはいけないことらしく。

 

もっと学校という場が、イレギュラーを認められる、あたたかな場であればよいなと思います。