おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

夕焼けの空は、おおきな虹である。

「虹の根元には、宝物が埋まっている。」

 小さい頃、童話が好きでよく読んでいました。アンデルセン童話やグリム童話、その他各国の民話など、図書館で借りて次から次へと手にしていました。「虹の根元には、宝物が埋まっている」という言葉をどこで聞いたかは覚えていないけれど、それはもう常識として私の身に染み付いています。なにか虹というものは、幸せを与えてくれるものだというイメージがあるのです。

虹は美しく、儚いものです。雨上がりのほんの一瞬、湿った空気を太陽光が照らしたときに現れる7色の橋(国によって色の数や種類は違うそうですね)。昔の人が虹に思いを馳せ、「遠くに見える虹の根元には宝物がある」と考えたのも納得できます。実際にはどんなに歩いても虹の根元には辿り着けないわけですが、それが余計に神秘さを増すのでしょう。

 最後に虹を見たのは、いつでしょうか。幼い頃、庭の水やりに使うホースの先端から霧状の水が出るようにして、それで虹を作って遊んでいたのを思い出します。そんな小さなお手製の虹でも、当時は幸せを感じたものでした。

私は夕暮れの、薄ぼんやりと橙色に染まった空が好きです。頭上にはもう夜が来ていて、群青色から、地平線の太陽の赤に向かって少しずつ色を変えていく空の表情が好きです。あれは、毎日見ることのできる、大きな虹だと思っています。

 

私たちは毎日虹を見ているのに、そのことに気づけていません。

 

以前、失恋して落ち込んでいる友人を連れて、砂浜を散歩したことがあります。いかんせん人と関わるのが上手ではないので、どう言葉をかけたらいいのかわからなくて、「空は虹なんだ」という話をしました。空いっぱいに見える虹を見ていると、自分の悩みなんかちっぽけなものに思えるよ、って。言葉にすると思いがはっきりすることは往々にしてよくあり、私は友人にそう告げると同時に、だから自分は夕焼けの空が好きなのだということに気づきました。

私の好きな言葉のひとつに、「明珠在掌」があります。詳しくは知らないのですが、「明珠(宝物)は既に掌に在る」のに、人はそれに気づかず、宝を探し続けてしまっている、というような意味だそうです。幸せは既に手の中にあるのに、それに気づいていないということ。

隣の芝は青いというように、自分の持っていないものほど、すばらしいものに見えます。あの人は英語が喋れていいな、とか。あの人は素直に自分の感情を表現できていいな、とか。あの人は恋人に愛されていていいな、とか。そうやって人と自分を比べてしまうと、だんだん辛くなります。

あの人は悩みがなさそうでいいな、と羨むのは、きっと違います。本当は、「いいな」と思っている人たちにもそれぞれ悩みがあり、その中で折り合いをつけて満足しているから、傍から見て幸せに見えるのでしょう。

どこか「完璧な」幸せを探して現状に不満を抱いているうちは、まだまだだな、と自戒の念を込めて。でも、治したいことも欲しいものも、まだまだたくさんあって、煩悩を捨てきれません。やっぱり幸せそうな「あの人」は羨ましいです。