おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

ありのままの自分でいられない。

お題「好きな短歌」といえば、これ。

 

 「すきすき」はきらい「うそうそ」ならほんと2回言ったらさかさまの刑(伊勢谷小枝子)

 

 

少し前、「ありのままの姿見せるのよ」という歌詞が一斉を風靡しましたけれども。私は「ありのまま」でなかなかいられない人間です。

人と交流するうえで一番恐ろしいのは、ありのままの自分を否定されること。

 

中学生のころ。私は学級委員をやったり部活の副部長をしたり、勉強も得意。友人もいて、楽しい学校生活を送っているつもりでいました。教室にはあまり居場所はなくて、ひとりで本を読んでいることもあったけれど、特に気にしていませんでした。ですがそれは装おった自分の姿で、友人に囲まれて盛り上がっている人たちは羨ましかったし、行事の中心になっている人たちはまぶしく見えました。そういう集団の盛り上がりと、自分とは、一線を画したものである感覚がありました。

本当は集団になかなか適応できないところがあるのだけれど、自分も他人もそれを認識していなくて。ぐらっと崩れたとき、その素が出てきて、そして学校に行けなくなりました。

不登校になる要素を孕んだ、集団に不適応な子ども。それが当時の私の、「ありのまま」でした。

 

ところが母はそんな私を受け容れることができなくて。十年近く経った今でも覚えています。

 

「あなたが家にいると嫌だから、お金をあげるから昼間は外で遊びなさい」

「おばさんに連絡してあるから、電車に乗ってそこまで行きなさい」

「そんなふうに育てた覚えはない」

 

そうした言葉をかけられて、そして傷つきました。自分の素の姿は、自力ではなかなか変えられないものです。その、変えられないものを否定された時のダメージは、大きい。私はそれから、ありのままの自分を否定されるのが怖くて、自分の思うことをますます言えなくなりました。

 

今でも、その片鱗はあります。自分の思うことを素直に表現するのが苦手。もし素直に表現して、そして「そんなのおかしい」とか「理解できない」とか言って否定されるのが、それで傷つくのが怖いのです。

 

「すきすき」なんて軽々しく言える相手のことは、ほんとうは嫌い。

「うそうそ」なんて冗談めかして言えることこそ、ほんとのこと。

 

そんなあまのじゃくな自分には、「さかさまの刑」を与えてやりたいとおもう。「さかさまの刑」という言葉はなんとも可愛らしくて、自分を責める厳しい気持ちを、和らげてくれる気がします。