おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

仕事は暇つぶしである。

と言っていた知り合いの言葉が、意外で、よく覚えている。

 

私のしている仕事は、「やりがい」を強調したり、それを「生きがい」と表現したりすることの多い職業である。だからこそ私自身も、「仕事=自分の人生」という考え方を得たくて、しかしそう思えない自分に対して葛藤を覚えていた。憧れる同僚のように、「楽しいから、仕事が苦だと思ったことはない!」と言い放ちたいけど、できるなら働きたくないし休めるなら休みたいのが本音。

もちろん、同じようなことを考えて言っている人もいる。ただ、「自分の生活を優先したい」と声を上げた人のことを飲み会で非難する人もいるので、大きな声で言えない。そんな自分は、生半可な気持ちで働いているように思えて仕方がない。

もし働かなくて済むのなら、その時間を使って、やりたいことがたくさんある。まあ、そのやりたいことをするためにはお金がいるから、結局働くのだけれど。

 

しかしその知り合いは、仕事が一番じゃないんだよ、と言った。その考えは、私の周囲で良しとされるものとは正反対なので、堂々と発言するその姿に、たじろいだ。「そんなこといっていいの?」って。

その人いわく、暇だから仕事をするんだ、と。お金がいるのもそうだけど、時間はたくさんあって、何もなければその時間を持て余してしまう。1日何時間も拘束されて、しかも何らかの自己満足感(金銭なり自己の成長なり達成感なり)を得られる仕事は、ちょうどいい暇つぶしなのだ、と。

暇つぶしだから別に極度のストレスも受けないし、必要以上にのめり込む必要もないと思っている、と。

 

ふうんって、その時は釈然としないまま話を終えたけれど、最近少しその意味がわかる気がする。

この年末年始、暇だったのだ。友人も皆帰省したり家族で過ごしたりしているし、私はひとりで、とても暇だった。

自由な時間がたくさんあるから、大掃除して、どこどこに行って、あれをして〜〜〜〜と楽しみに計画していたけれど、いざ休みに入ってみると、やりたかったことなど数時間あれば終わってしまうのである。

そうしたら、手持ち無沙汰になった。

息抜きが楽しいのは、抜く息があるから楽しいのであって、何のストレスも疲れも感じずひとりでのんびりしている時には、その必要性もない。かと言ってひとりでぼんやりしているのが楽しいかと言うと、まあ楽しいし、心のゆとりを感じるけれど、どうも生活に張り合いがない。

仕事をしているからこそ、空いた時間も楽しく過ごすことができる。それがなければ暇。そういう意味では、たしかに仕事とは暇つぶしだなあと思うのであった。

来年のことを言うと鬼が笑う。

小さい頃、家には漫画がありませんでした。しかし、子供心に本よりも手軽な漫画を読みたい日があって、そんな日には、ことわざ慣用句や四字熟語の四コマ漫画を読み込んでいました。「十人並み」という言葉を知って、物知り顔に母に「私の容姿は十人並みだから」と言ったら、「さすがにそこまでは良くないよ」と言われ、まるで自分が自惚れているようで恥ずかしかった覚えがあります。(十人並みとは、普通であるという意味です。)

いくつかお気に入りのことわざや何かがあって、そのうちのひとつが、「来年のことを言うと鬼が笑う」です。「来年のことを言えば鬼が笑う」という言い方もあるようですが、先のことなんかわからないのに、あれこれ言っていると鬼に笑われますよという言葉。鬼が笑う、という語感が好きで、隙あらば使おうとしています。

鬼に笑われるかもしれませんが、今は年の瀬、来年は目前に迫っていますから、もう良いでしょう。ということで、今週のお題「2018年の抱負」。

 

最近ネットで、「自律神経を整える日記の書き方は、よくなかったこと→よかったこと→翌日の抱負の順で書くと良い」という文言を見ました。調べてみると、どうやらこれは、小林弘幸さんという方の著書が元になっているようです。今回は日記ではなくて1年というスパンの話になりますが、これに基づいて、振り返ってみたいと思います。

 

よくなかったこと。

自分の私生活のわがままで、職場の人に迷惑をかけてしまったこと。結婚するとか言って人事を調整してもらったのに、年度途中でその話がなくなり、結局無駄だったということになってしまいました。周りの人は優しいので、それについてあまり責めませんが、反省すべき点だと思っています。浅慮による判断。そもそも彼との別れに至った経緯の中にも、浅慮による判断が多々あります。後悔はしていませんが、自分の負うところは多いです。

異性関係。これに関して深く言及しても仕方ないので避けますが、反省すべき点は大いにあります。

 

よかったところ。

仕事の面で、去年よりもうまくいくようになって自信がついたこと。人事をいろいろ調整していただいた結果、去年の反省を生かし、今年に臨みやすい体勢を整えることができました。結果として、PDCAを効果的に行うことができ、仕事のやり方を工夫できるようになりました。来年はまた異なる仕事を任されるかもしれませんが、学んだことは活かせそうです。

私生活に、迷いがなくなったこと。選択肢が多いことは、迷いを生むことになります。このまま地元で仕事を続けるか、彼のところに越して働くか。働かないか。同じ仕事をするか。転職するか。選択肢がいろいろありすぎて、何を選んだらいいのかわからなくなっていました。私は初志貫徹というのを大切にしていて、結局今回も、自分の初志を大切にした結果彼とは別れることになったわけです。それならそれで、自分の決めたことは納得いくまではやろうと、それまでの中途半端な気持ちをなくすことができました。

 

総括すると、仕事はよかったけど私生活はよくなかった、という感じがします。そこで、来年は、公私ともに充実させます。

仕事は、自分を追い詰めない程度にがんばる。

料理や掃除や、自分の生活を自分で保つための能力を意識的に高める。

土日、少なくともどちらかは休めるようにし、心身ともに休息を取る。

そして、前向きに日々の生活や仕事に向き合っていく。

このあたりを、来年の目標にしていこうかな、と思っております。

ひとりでいても楽しいけれど、

だれかといるともっと楽しい。

 

彼と別れてから、自由な時間が増えました。かつては土日の仕事の合間に、片道2時間近くかけて彼に会いに行っていましたし、必ず1泊していたので、それ以上自由な時間はありませんでした。それが、週末の夜ゆっくり寝られて、日中も時間にゆとりが持てるようになったのです。

肩が軽いです。やりたいことをすることができる。あちこちに出かけて、やってみたかったことをたくさんしています。

 

もしかしたら私は、ひとりに向いているのかもしれません。ひとりでも、そんなに寂しくはありません。周りは私がひとりでもそんなに気にしないこともわかっているから、人目も気になりません。別に誰かと一緒でなくても、したいことをしていると楽しいし、むしろやりたいことができる。それで心が充実しています。でも、すきなことをしているとき、一緒に「楽しいね」と言ってくれる人がいたら、もっと楽しいのに、と最近思います。

仕事帰りに甘いものをちょっと買って帰っても、ひとりで食べるとあまり美味しくない。ひとりで旅行して現地の名物を食べても、ひとりだとあんまり美味しくない。私はどちらかというとそういうタイプで、だから美味しいものは、できるなら誰かと共有したい。ただ同じ空間で食べるのではなく、一緒に「おいしいね」と言い合いたい。そういうものを求めているようです。

 

最近の私は、迷っています。

彼と別れてから、ちょっと向かうべき方向を見失っています。

まずは、自分ひとりでも生きていけるような、自立した精神面での強さを手に入れた方が良いのか。それとも、一緒に「楽しいね」って言い合える相手(友達でも恋人でも)を増やした方が良いのか。誰かに依存してしまうと、結局それが理由で離れられなくなるから、やはり自立するのが先なのか。

 

考えてもきっと意味はないので、行動したいけれど、その行動がなかなかできません。思い切りが足りないのです。誰かと一緒なら行動できるけれど、ひとりでは結局億劫で、何もしないで休日が終わってしまいます。

 

自分は、何がすきなのか。

自分は、どう生きたいのか。

何をして過ごしたいのか。

どんな人と一緒にいたいのか。

 

正直言って、今の私が好きだと思っているもの、落ち着く行動、空間、は、長年付き合っていた前の彼の影響を多分に受けています。まずはそこから離れて、ほんとうに自分の心地よいものを、見つけていくところから始めたらよいのでしょうか。

見えないものを、どう見るか。

 

 

大切なものは、目に見えない。

とは、あの有名な『星の王子さま』の一節ですが、わたしは最近、この言葉についてよく考えています。というのも、先日、結婚をするかもしれなかった男性とお別れしたからです。

別れるまでのいざこざはともあれ、彼は「目に見える」部分では結婚相手として非常に理想的な男性でした。学歴が高く、大企業に勤めており、年収も高い。福利厚生がしっかりしており、空いた時間で趣味や自己啓発に意欲的。背が高く顔も良く、程よく筋肉質で清潔感もある。自分を売り込むアピール力があり、だからこそ他人から嫌われない。きっと、最近流行りの婚活市場に投入したら、市場価値はとても高いでしょう。人に自慢できる彼氏であり、彼と結婚できる女性は幸せだろうと思います。

わたしは彼を好きでしたが、しかし自分自身は、目に見えるものしか見ていなかったのだと気づかされました。彼とわたしは、考え方が全然違ったのです。結果しか求めない彼と、過程を大切にしたいわたし。譲れない部分を全く譲らない彼と、自分の譲れないところも譲ってしまうわたし(これは自分のよくないところですが)。彼は、結果が出せないわたしを、一歩も譲らずに、気の済むまで叱責していました。かたやわたしは、頑張っているのにその頑張りは全く見ずに「結果を出せ」と怒る彼に対して、イライラを募らせていました。彼は素敵な男性ですが、わたしとの組み合わせはよくなかったのです。

目を閉じて、彼の行動や言動、それがどういう思考回路から発せられるものなのかを静かに見極めていれば、もっと早い段階で別れることになっていたでしょうに。

 

先日行ったダイアログインザダークでは、暗闇の内部で、優しい声の男性にリードされました。彼もきっと視覚障害のある方。暗闇のなかでは、とてもユーモアがあって、頼り甲斐があって、すばらしい男性に思えました。でも、彼と明るい街中ですれ違っていたら?白杖に惑わされて、彼をそんな存在だとは思いもしなかったかもしれません。わたしは、目に見える情報に縛られ、そこから相手の人間性までも推し量ってしまっています。ほんとうは、目に見える部分と、見えない内面には、それほどの関係はないはずなのに。

 

目に見えないものをしっかりと見て、相手と向き合いたい。それが最近のわたしのテーマです。年収や肩書や外見やその他のわかりやすい情報に左右されず、その人の行動や言動、様子から、きちんと内面を見つめたい。そう思っていますが、実際のところ、これが上手くできないのです。どうしても、目に見える情報と見えない情報を混同して、わけがわからなくなってしまいます。

 

幸せに、心豊かに生きるためには、目に見えてわかりやすいものに価値を置くのではなく、目に見えない大切なものに価値を置く必要があると感じています。そのために、いったい何をしたら良いのでしょうか。そんなことを考えながら、毎日を過ごしています。

学校は、「学校に来なくてもいいよ」と何故言えないのか。

不登校は問題行動ではないというニュースを、Twitterのタイムラインで最近よく見かけます。夏休み明けに、学校に通うことを苦にして自殺する子供のニュースもある中、不登校問題は相も変わらず喫緊のテーマである訳です。このニュースでは、不登校である子供に非はないのだから、学校関係者は、嫌がる子供を学校に来させてはいけないという主張がなされています。嫌だったら、学校には行かなくていいのです。

 

不登校は、当事者に非はない。そんなことは、学校関係者も、わかっているのです。それでも現場では、「学校に来なくてもいいんだよ」という言葉を言うことは、タブーとなることがあります。

私は、自分自身が不登校だったときに「嫌なら学校に来なくてもいいんだよ」と言われ、救われたことがあります。不登校の子にとって、そのような言葉は当然必要だと思っていました。だから、現場で不登校の生徒と関わったときにも、同様のことを言いました。すると、「そんな勝手なことを言って、責任を取れるのか」と批判されたのです。 

 

学校が「来なくてもいいよ」と言えない理由のひとつに、入試にまつわるものがあると思います。特に中学の場合ですが、現在の高校入試制度だと、テストの点数の他に、内申点というものが加味される場合があります。内申点とはつまり、通知表の成績のこと。

通知表の成績は、絶対評価かつ、到達度評価です。定められた基準をどれだけ満たすことができたのかを、テストや日頃の授業での取り組みの中で評価していきます。学校へ来ない、授業に参加しない、テストを受けない子供は、その到達度を見ることが難しいため成績をつけづらい状況にあります。

「学校に来なくてもいいよ」という言葉は優しいものに聞こえますが、これを学校が言ったとき、「学校に来なくていいよ(でも成績は低くなるよ)」ということになってしまいます。

成績が1や2になることがわかっているのに、それを安易に勧めることはできません。言われた言葉に従って、休んだら成績がほとんどつかなかった。これでは高校に行けない!などと言われてしまうと、立つ瀬がありません。内申が足りなくて不合格という結果が出たとして、その責任を取ることは、現場の先生にはできないのです。

 

特に高校入試を考えているご家庭の場合、保護者の方も、成績を気にされています。できるなら、学校に通ってほしいと思う方もいるでしょう。そんなとき、学校から「来なくてもいいんだよ」と言われたら、どう感じるのでしょうか。

学校が恐れているのは、保護者からのクレームです。そこから、「先生が言ったからそうしたのに!」とか、「あの先生/学校は、私の子供を見捨てた」とトラブルに発展することです。「学校に来なくていいんだよ」という発言は、「見捨てた」と捉えられる可能性があります。実際、そのような行き違いから生じたトラブルを、私も耳にしたことがあります。学校にとって、「来なくてもいいよ」という発言は、大きな問題の可能性を秘めているものです。

 

不登校は問題行動ではないから、本人の意思に反して強引に解決しようとする必要はない。また、「嫌なら学校に来なくてもいいよ」という対応が適切な場合もある、ということを、もっと世間の常識として広める必要があります。

たとえそれを言ったとしても、トラブルに発展する可能性が低いのであれば、学校側もより幅広い対応を取ることができるようになってくるのではないでしょうか。

 

決めつけてしまうこと。

「幼い頃に反抗期のない子どもはおかしい。昔受け持った子にもそういう生徒がいたけど、やっぱりおかしかった。」

 高校のとき、家庭科の先生が、そう熱弁していました。私は母から、「あなたは小さい頃も反抗期らしい反抗期がなかった」と言われて育ちました。教室の窓側、一番左端の最前列から、私はその先生が確信めいた口調で語る姿に、非難めいた視線を浴びせていました。

それが何年生の頃で、どういう話の流れだったかは覚えていませんが、しかしそのとき感じたやりきれなさと、不快感はよく覚えています。

 

私はおかしいのかもしれない。

それは、なんとなく薄々、感じていました。中学のクラスではいじめられたし、不登校にもなったし、そのせいで2回も転校したし、高校でも友達らしい友達をつくることはできないし。周囲の人がやっているように、うまく友達を作れないのは、私がおかしいからかもしれない。

でも、「あなたおかしいよ」と明言されたことはありませんでした。出会う大人はみな優しくて、「あなたは悪くないよ」と言ってくれました。それがどこまで本心かはわからなくても、その言葉に救われていました。

おかしい、とはっきり言う大人と出会ってしまった。そのことに、衝撃を受けたのかもしれません。

 

どうして、目の前の集団に「反抗期のなかった生徒」がいるかもしれないのに、そんな話をするんだろう?

私はその配慮のなさを、何より不快に思いました。心のうちでどう思っていても構わないけれど、経験豊富な先生という立場で、生徒にそんなことをはっきり言ってしまってよいのだろうか、と。

 

私の通っていた高校はそれなりの進学校だったので、荒れた生活をしている生徒も、問題行動を起こす生徒もほとんどいませんでした。そんな学校だから、まさか先生も目の前の40人の中に、「おかしな」生徒が混ざっているとは思いもよらなかったのでしょう。

不用意な発言に気づいてほしくて、授業後の感想シートのようなものに「わたしは反抗期がないと言われていたので先生の話に傷つきました」という趣旨のことを書こうとしましたが、それを書いたら「やっぱり反抗期のない生徒はおかしい」となりそうで、書くのをやめました。

 

実際のところ、反抗期がなかった私と母との関係は、家族の外にいる人から見ると異様なようです。先生の言う、「反抗期のない子はおかしい」というのも、あながち間違いではないのかもしれません。それでも私は、自分のことを、まっとうな人間だと信じていたい。「おかしい」なんてことは、自分の中でわかっていればいいことであって、他の人から言われたくはないなあなんて、あの頃のことを思い出しています。

ダイアログインザダーク

闇は、怖いものではありませんでした。

 

お化け屋敷が嫌いです。暗い中で、どこから、何が襲ってくるかわからない。心臓が痛くなるような緊張感と、不安感は耐え難いものです。先の見えない暗闇は、恐ろしいものだと思っていました。

 

ダイアログインザダーク。目の見えない真っ暗闇の世界を「暗闇のエキスパート」である視覚障害をお持ちのアテンドさんに案内されながら体験するものです。以前から興味はあったのですが、この8月で会場がクローズしてしまうとのことなので、予約をして行ってきました。

ひとりで参加したため、参加者は皆知らない人。年齢や性別は顔を見ればわかりますが、顔を合わせたらすぐ暗闇に入ってしまうため、どんな顔つきだったか、いくつくらいだったか、わからない状態で行動を共にします。

不思議なことに、年齢はまちまちの参加者でしたが、声は皆若々しいのです。顔だけ見ると、それはもちろんその年齢なりの雰囲気があるのですが、声には、本人の内面的な若々しさが映し出されていた気がします。あるいは、相槌のうまい人がいたり、安心感を与える話し方をする人がいたり。おそらく、顔を合わせていては気づくことのできないその人の内面の良さを、音によって掬い取っている感じがしました。

 

近くに誰がいるのか、誰もいないのか、足元に何があるのか、何もないのか。暗闇の中では、何もわかりません。何かにつまずいて転ぶかもしれない。大きな不安を感じます。ただ間近で聞こえる声と、手に触れた確かな感触だけが頼り。前を歩く人の背に手が触れると、大きな安心感がありました。

それでも、参加者同士の声かけが増えるにしたがって、闇に慣れてきます。たしかに何も見えないことへの恐怖心はあるけれど、楽しむ気持ちが湧いてきます。何も見えないからこそ、手に触れていない世界には大きな広がりがあり、可能性があります。

 

人と話しているとき、その人の顔つきや表情を見て、「きっとこういう人だろう」と決めつけて話してしまうことがあります。しかし、そのような先入観を持っていると、その人の本質を見ることができないかもしれません。

どんな顔をしているかではなく、何を言っているか。どんな服を着ているかではなく、どう考え、行動しているのか。その人の内面が表われ出る部分に注目し、人と関わっていきたい。そう感じた90分間でした。

 

もしまた、関東に会場ができたら、ぜひ参加したいと思います。