おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

ひとりでいても楽しいけれど、

だれかといるともっと楽しい。

 

彼と別れてから、自由な時間が増えました。かつては土日の仕事の合間に、片道2時間近くかけて彼に会いに行っていましたし、必ず1泊していたので、それ以上自由な時間はありませんでした。それが、週末の夜ゆっくり寝られて、日中も時間にゆとりが持てるようになったのです。

肩が軽いです。やりたいことをすることができる。あちこちに出かけて、やってみたかったことをたくさんしています。

 

もしかしたら私は、ひとりに向いているのかもしれません。ひとりでも、そんなに寂しくはありません。周りは私がひとりでもそんなに気にしないこともわかっているから、人目も気になりません。別に誰かと一緒でなくても、したいことをしていると楽しいし、むしろやりたいことができる。それで心が充実しています。でも、すきなことをしているとき、一緒に「楽しいね」と言ってくれる人がいたら、もっと楽しいのに、と最近思います。

仕事帰りに甘いものをちょっと買って帰っても、ひとりで食べるとあまり美味しくない。ひとりで旅行して現地の名物を食べても、ひとりだとあんまり美味しくない。私はどちらかというとそういうタイプで、だから美味しいものは、できるなら誰かと共有したい。ただ同じ空間で食べるのではなく、一緒に「おいしいね」と言い合いたい。そういうものを求めているようです。

 

最近の私は、迷っています。

彼と別れてから、ちょっと向かうべき方向を見失っています。

まずは、自分ひとりでも生きていけるような、自立した精神面での強さを手に入れた方が良いのか。それとも、一緒に「楽しいね」って言い合える相手(友達でも恋人でも)を増やした方が良いのか。誰かに依存してしまうと、結局それが理由で離れられなくなるから、やはり自立するのが先なのか。

 

考えてもきっと意味はないので、行動したいけれど、その行動がなかなかできません。思い切りが足りないのです。誰かと一緒なら行動できるけれど、ひとりでは結局億劫で、何もしないで休日が終わってしまいます。

 

自分は、何がすきなのか。

自分は、どう生きたいのか。

何をして過ごしたいのか。

どんな人と一緒にいたいのか。

 

正直言って、今の私が好きだと思っているもの、落ち着く行動、空間、は、長年付き合っていた前の彼の影響を多分に受けています。まずはそこから離れて、ほんとうに自分の心地よいものを、見つけていくところから始めたらよいのでしょうか。

見えないものを、どう見るか。

 

 

大切なものは、目に見えない。

とは、あの有名な『星の王子さま』の一節ですが、わたしは最近、この言葉についてよく考えています。というのも、先日、結婚をするかもしれなかった男性とお別れしたからです。

別れるまでのいざこざはともあれ、彼は「目に見える」部分では結婚相手として非常に理想的な男性でした。学歴が高く、大企業に勤めており、年収も高い。福利厚生がしっかりしており、空いた時間で趣味や自己啓発に意欲的。背が高く顔も良く、程よく筋肉質で清潔感もある。自分を売り込むアピール力があり、だからこそ他人から嫌われない。きっと、最近流行りの婚活市場に投入したら、市場価値はとても高いでしょう。人に自慢できる彼氏であり、彼と結婚できる女性は幸せだろうと思います。

わたしは彼を好きでしたが、しかし自分自身は、目に見えるものしか見ていなかったのだと気づかされました。彼とわたしは、考え方が全然違ったのです。結果しか求めない彼と、過程を大切にしたいわたし。譲れない部分を全く譲らない彼と、自分の譲れないところも譲ってしまうわたし(これは自分のよくないところですが)。彼は、結果が出せないわたしを、一歩も譲らずに、気の済むまで叱責していました。かたやわたしは、頑張っているのにその頑張りは全く見ずに「結果を出せ」と怒る彼に対して、イライラを募らせていました。彼は素敵な男性ですが、わたしとの組み合わせはよくなかったのです。

目を閉じて、彼の行動や言動、それがどういう思考回路から発せられるものなのかを静かに見極めていれば、もっと早い段階で別れることになっていたでしょうに。

 

先日行ったダイアログインザダークでは、暗闇の内部で、優しい声の男性にリードされました。彼もきっと視覚障害のある方。暗闇のなかでは、とてもユーモアがあって、頼り甲斐があって、すばらしい男性に思えました。でも、彼と明るい街中ですれ違っていたら?白杖に惑わされて、彼をそんな存在だとは思いもしなかったかもしれません。わたしは、目に見える情報に縛られ、そこから相手の人間性までも推し量ってしまっています。ほんとうは、目に見える部分と、見えない内面には、それほどの関係はないはずなのに。

 

目に見えないものをしっかりと見て、相手と向き合いたい。それが最近のわたしのテーマです。年収や肩書や外見やその他のわかりやすい情報に左右されず、その人の行動や言動、様子から、きちんと内面を見つめたい。そう思っていますが、実際のところ、これが上手くできないのです。どうしても、目に見える情報と見えない情報を混同して、わけがわからなくなってしまいます。

 

幸せに、心豊かに生きるためには、目に見えてわかりやすいものに価値を置くのではなく、目に見えない大切なものに価値を置く必要があると感じています。そのために、いったい何をしたら良いのでしょうか。そんなことを考えながら、毎日を過ごしています。

学校は、「学校に来なくてもいいよ」と何故言えないのか。

不登校は問題行動ではないというニュースを、Twitterのタイムラインで最近よく見かけます。夏休み明けに、学校に通うことを苦にして自殺する子供のニュースもある中、不登校問題は相も変わらず喫緊のテーマである訳です。このニュースでは、不登校である子供に非はないのだから、学校関係者は、嫌がる子供を学校に来させてはいけないという主張がなされています。嫌だったら、学校には行かなくていいのです。

 

不登校は、当事者に非はない。そんなことは、学校関係者も、わかっているのです。それでも現場では、「学校に来なくてもいいんだよ」という言葉を言うことは、タブーとなることがあります。

私は、自分自身が不登校だったときに「嫌なら学校に来なくてもいいんだよ」と言われ、救われたことがあります。不登校の子にとって、そのような言葉は当然必要だと思っていました。だから、現場で不登校の生徒と関わったときにも、同様のことを言いました。すると、「そんな勝手なことを言って、責任を取れるのか」と批判されたのです。 

 

学校が「来なくてもいいよ」と言えない理由のひとつに、入試にまつわるものがあると思います。特に中学の場合ですが、現在の高校入試制度だと、テストの点数の他に、内申点というものが加味される場合があります。内申点とはつまり、通知表の成績のこと。

通知表の成績は、絶対評価かつ、到達度評価です。定められた基準をどれだけ満たすことができたのかを、テストや日頃の授業での取り組みの中で評価していきます。学校へ来ない、授業に参加しない、テストを受けない子供は、その到達度を見ることが難しいため成績をつけづらい状況にあります。

「学校に来なくてもいいよ」という言葉は優しいものに聞こえますが、これを学校が言ったとき、「学校に来なくていいよ(でも成績は低くなるよ)」ということになってしまいます。

成績が1や2になることがわかっているのに、それを安易に勧めることはできません。言われた言葉に従って、休んだら成績がほとんどつかなかった。これでは高校に行けない!などと言われてしまうと、立つ瀬がありません。内申が足りなくて不合格という結果が出たとして、その責任を取ることは、現場の先生にはできないのです。

 

特に高校入試を考えているご家庭の場合、保護者の方も、成績を気にされています。できるなら、学校に通ってほしいと思う方もいるでしょう。そんなとき、学校から「来なくてもいいんだよ」と言われたら、どう感じるのでしょうか。

学校が恐れているのは、保護者からのクレームです。そこから、「先生が言ったからそうしたのに!」とか、「あの先生/学校は、私の子供を見捨てた」とトラブルに発展することです。「学校に来なくていいんだよ」という発言は、「見捨てた」と捉えられる可能性があります。実際、そのような行き違いから生じたトラブルを、私も耳にしたことがあります。学校にとって、「来なくてもいいよ」という発言は、大きな問題の可能性を秘めているものです。

 

不登校は問題行動ではないから、本人の意思に反して強引に解決しようとする必要はない。また、「嫌なら学校に来なくてもいいよ」という対応が適切な場合もある、ということを、もっと世間の常識として広める必要があります。

たとえそれを言ったとしても、トラブルに発展する可能性が低いのであれば、学校側もより幅広い対応を取ることができるようになってくるのではないでしょうか。

 

決めつけてしまうこと。

「幼い頃に反抗期のない子どもはおかしい。昔受け持った子にもそういう生徒がいたけど、やっぱりおかしかった。」

 高校のとき、家庭科の先生が、そう熱弁していました。私は母から、「あなたは小さい頃も反抗期らしい反抗期がなかった」と言われて育ちました。教室の窓側、一番左端の最前列から、私はその先生が確信めいた口調で語る姿に、非難めいた視線を浴びせていました。

それが何年生の頃で、どういう話の流れだったかは覚えていませんが、しかしそのとき感じたやりきれなさと、不快感はよく覚えています。

 

私はおかしいのかもしれない。

それは、なんとなく薄々、感じていました。中学のクラスではいじめられたし、不登校にもなったし、そのせいで2回も転校したし、高校でも友達らしい友達をつくることはできないし。周囲の人がやっているように、うまく友達を作れないのは、私がおかしいからかもしれない。

でも、「あなたおかしいよ」と明言されたことはありませんでした。出会う大人はみな優しくて、「あなたは悪くないよ」と言ってくれました。それがどこまで本心かはわからなくても、その言葉に救われていました。

おかしい、とはっきり言う大人と出会ってしまった。そのことに、衝撃を受けたのかもしれません。

 

どうして、目の前の集団に「反抗期のなかった生徒」がいるかもしれないのに、そんな話をするんだろう?

私はその配慮のなさを、何より不快に思いました。心のうちでどう思っていても構わないけれど、経験豊富な先生という立場で、生徒にそんなことをはっきり言ってしまってよいのだろうか、と。

 

私の通っていた高校はそれなりの進学校だったので、荒れた生活をしている生徒も、問題行動を起こす生徒もほとんどいませんでした。そんな学校だから、まさか先生も目の前の40人の中に、「おかしな」生徒が混ざっているとは思いもよらなかったのでしょう。

不用意な発言に気づいてほしくて、授業後の感想シートのようなものに「わたしは反抗期がないと言われていたので先生の話に傷つきました」という趣旨のことを書こうとしましたが、それを書いたら「やっぱり反抗期のない生徒はおかしい」となりそうで、書くのをやめました。

 

実際のところ、反抗期がなかった私と母との関係は、家族の外にいる人から見ると異様なようです。先生の言う、「反抗期のない子はおかしい」というのも、あながち間違いではないのかもしれません。それでも私は、自分のことを、まっとうな人間だと信じていたい。「おかしい」なんてことは、自分の中でわかっていればいいことであって、他の人から言われたくはないなあなんて、あの頃のことを思い出しています。

ダイアログインザダーク

闇は、怖いものではありませんでした。

 

お化け屋敷が嫌いです。暗い中で、どこから、何が襲ってくるかわからない。心臓が痛くなるような緊張感と、不安感は耐え難いものです。先の見えない暗闇は、恐ろしいものだと思っていました。

 

ダイアログインザダーク。目の見えない真っ暗闇の世界を「暗闇のエキスパート」である視覚障害をお持ちのアテンドさんに案内されながら体験するものです。以前から興味はあったのですが、この8月で会場がクローズしてしまうとのことなので、予約をして行ってきました。

ひとりで参加したため、参加者は皆知らない人。年齢や性別は顔を見ればわかりますが、顔を合わせたらすぐ暗闇に入ってしまうため、どんな顔つきだったか、いくつくらいだったか、わからない状態で行動を共にします。

不思議なことに、年齢はまちまちの参加者でしたが、声は皆若々しいのです。顔だけ見ると、それはもちろんその年齢なりの雰囲気があるのですが、声には、本人の内面的な若々しさが映し出されていた気がします。あるいは、相槌のうまい人がいたり、安心感を与える話し方をする人がいたり。おそらく、顔を合わせていては気づくことのできないその人の内面の良さを、音によって掬い取っている感じがしました。

 

近くに誰がいるのか、誰もいないのか、足元に何があるのか、何もないのか。暗闇の中では、何もわかりません。何かにつまずいて転ぶかもしれない。大きな不安を感じます。ただ間近で聞こえる声と、手に触れた確かな感触だけが頼り。前を歩く人の背に手が触れると、大きな安心感がありました。

それでも、参加者同士の声かけが増えるにしたがって、闇に慣れてきます。たしかに何も見えないことへの恐怖心はあるけれど、楽しむ気持ちが湧いてきます。何も見えないからこそ、手に触れていない世界には大きな広がりがあり、可能性があります。

 

人と話しているとき、その人の顔つきや表情を見て、「きっとこういう人だろう」と決めつけて話してしまうことがあります。しかし、そのような先入観を持っていると、その人の本質を見ることができないかもしれません。

どんな顔をしているかではなく、何を言っているか。どんな服を着ているかではなく、どう考え、行動しているのか。その人の内面が表われ出る部分に注目し、人と関わっていきたい。そう感じた90分間でした。

 

もしまた、関東に会場ができたら、ぜひ参加したいと思います。

 

ダイアログインサイレンス

「静けさの中の対話」へ行ってみて。

 

ダイアログインサイレンスとは音のない世界を体験する企画です。参加者は音を遮断するヘッドホンを付け、聴覚障害をお持ちのアテンドさんに案内され、音のない世界での対話を楽しみます。

 

ヘッドホンをつけてまず感じたのは、自分の唾液や心臓の音がうるさいということ。特に唾液を飲み込む音は頭の中で響き、なんともきもち悪い感覚でした。

アテンドさんに案内されるままに進んでゆき、いくつかの遊びを体験します。アテンドさんは表情も身ぶり手振りも豊かで、とってもかわいらしい感じ!ですが、言葉による説明がないので、遊びのルールを説明されても、いったい何をすればいいのか?なかなか理解できません。わかろうとすると、アテンドさんの表情や動きに目を凝らすことになり、自然と目で見ることに集中していきました。そういえばいつの間にか、唾液や心臓の音もぜんぜん気にならなくなっていました。

言葉とは便利なもので、言葉にすれば、言いたいことを伝えた気持ちになってしまいます。でも、音声のない世界では、相手に伝えるためには、恥を捨てて表情や身ぶりで示さなくてはいけない。そして、相手をよく見て理解しないと、伝えたいことがわからない。今回、普段のコミュニケーションで、いかに自分が表情で伝えることをさぼっていたのかを実感しました。

参加者の方もさまざまでしたが、大きな笑顔と大げさな身ぶりにすぐに慣れ、楽しそうに活動されていた方もいました。その適応力というか、柔軟性に感心しました。私は恥ずかしさを捨てきれなくて、なかなか振り切った表情や身ぶりはできなかったので……。

遊びの中にはアテンドさん対参加者のものもあれば、参加者同士の交流を求められるものもあり。初めは目を合わせ、そのうちコミュニケーションを取って行くことで、見知らぬ人とも連帯感が生まれてきます。

今回ひとりで参加をしましたし、周りは2人で参加されている方も多かったですが、そのことによって疎外感を感じることはありませんでした。

 

最後に、アテンドさんや参加者同士で対話する時間をいただきました。印象に残っているのは、「同じことをわかっているもの同士は、つながることができる」というアテンドさんの言葉。

音声のない世界は、健常者である私にとっては新鮮なものでしたが、音の聞こえない方にとっては当たり前のもの。お互いの知っている世界が違うのだから、わかり合うためには、互いの世界を知ることから始める必要があると感じました。

 

ここから手話を勉強することにまで繋げられれば、さらによいなと思いつつ。自分の知らない世界があることや、認識している世界の狭さがわかったことだけでも、すてきな経験を得ることができた90分間でした。

不登校の子に、学校は何をしなくてはいけないのか。

不登校の子供の多くは、どんなに割り切っているように見えても、やはり心のどこかに後ろめたさを感じているものだと考えています。私の場合はそうで、修学旅行に行かなかったこととか、入学した原籍校を卒業しなかったこととかを、未だに残念に思い出します。不登校の時期があったからこそ今の私がいるので、後悔しているわけではありませんが、それでも「ちゃんと学校に戻れたらよかったなぁ」と思います。

不登校の子たちと話をしていても、やはりそれを感じます。もう何年も学校に行っていなくて、特にそれを気にしていないように振舞っている子でも、ふと学校の話題が出ると表情が変わったり、「制服を着たことがない」などと自虐的に笑ってみたりします。心のどこかで、学校のことを意識しているのです。

「みんながふつうに学校に通っているのに、自分は行けない」と劣等感を抱くのは、つらいものです。(「行けないのではなく行かないのだ」と捉えられたらよいですが、それも難しく。)もし何の疑いもなく、楽しく、毎日学校に行けるのであればそれが何より良いことです。どの声かけで、どのタイミングで力が湧いてくるかわかりません。子どもに働きかけ続けることは、学校の使命なのではないでしょうか。

 

どんな働きかけをしたらよいのか。不登校だった私が救われた言葉は、「つらいなら学校に行かなくていいんだよ」というものでした。学校に行けない自分を許すのは、本人には難しいことです。また、子供を心配する保護者の方が言うには、勇気の要る言葉です。私は学校の先生にこそ、「つらいなら行かなくてもいい」という言葉を言ってほしいです。

しかし現場に関わっていると、学校の先生は、「行かなくてもいい」なんて言葉を口が裂けても言えないのだとわかります。子供には学びを受ける権利があり、「行かなくていい」という発言を学習権を否定するものだと受け取られてしまうと大変なことになります。

だから、学校は基本的には、不登校の子たちに「来てね」「待ってるよ」と言うことしかできません。

 

その上で学校ができるのは、連絡を絶やさないことです。電話や家庭訪問を教員と保護者、双方の負担にならない頻度で継続することは、大人同士の人間関係を築くことに役立ちます。保護者と教員の信頼関係があれば、子供も「先生の言うことに耳を傾けてみようかな」という気になるかもしれません。また、先生が家に来るだけで、子供は学校の雰囲気を感じます。「行ってみようかな」という気になるときがあるかもしれません。そうしたきっかけを生み出す可能性があるので、家庭訪問や家庭連絡は必要なのではないでしょうか。

パワーのない状態の子に、大人ができることは環境を整えることくらいです。その子が力を蓄えるために、どんなことが必要か。協力して考えていくと、良い効果が得られるかもしれません。

 

「こうしたら学校に行けるようになる」とか、「こうしたら学校に行かなくても幸せに生きる力が身につく」とか、はっきりしたやり方があればいいのに、難しいですね。

そんなことをつらつらと考える夏の日でした。