おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

決めつけてしまうこと。

「幼い頃に反抗期のない子どもはおかしい。昔受け持った子にもそういう生徒がいたけど、やっぱりおかしかった。」

 高校のとき、家庭科の先生が、そう熱弁していました。私は母から、「あなたは小さい頃も反抗期らしい反抗期がなかった」と言われて育ちました。教室の窓側、一番左端の最前列から、私はその先生が確信めいた口調で語る姿に、非難めいた視線を浴びせていました。

それが何年生の頃で、どういう話の流れだったかは覚えていませんが、しかしそのとき感じたやりきれなさと、不快感はよく覚えています。

 

私はおかしいのかもしれない。

それは、なんとなく薄々、感じていました。中学のクラスではいじめられたし、不登校にもなったし、そのせいで2回も転校したし、高校でも友達らしい友達をつくることはできないし。周囲の人がやっているように、うまく友達を作れないのは、私がおかしいからかもしれない。

でも、「あなたおかしいよ」と明言されたことはありませんでした。出会う大人はみな優しくて、「あなたは悪くないよ」と言ってくれました。それがどこまで本心かはわからなくても、その言葉に救われていました。

おかしい、とはっきり言う大人と出会ってしまった。そのことに、衝撃を受けたのかもしれません。

 

どうして、目の前の集団に「反抗期のなかった生徒」がいるかもしれないのに、そんな話をするんだろう?

私はその配慮のなさを、何より不快に思いました。心のうちでどう思っていても構わないけれど、経験豊富な先生という立場で、生徒にそんなことをはっきり言ってしまってよいのだろうか、と。

 

私の通っていた高校はそれなりの進学校だったので、荒れた生活をしている生徒も、問題行動を起こす生徒もほとんどいませんでした。そんな学校だから、まさか先生も目の前の40人の中に、「おかしな」生徒が混ざっているとは思いもよらなかったのでしょう。

不用意な発言に気づいてほしくて、授業後の感想シートのようなものに「わたしは反抗期がないと言われていたので先生の話に傷つきました」という趣旨のことを書こうとしましたが、それを書いたら「やっぱり反抗期のない生徒はおかしい」となりそうで、書くのをやめました。

 

実際のところ、反抗期がなかった私と母との関係は、家族の外にいる人から見ると異様なようです。先生の言う、「反抗期のない子はおかしい」というのも、あながち間違いではないのかもしれません。それでも私は、自分のことを、まっとうな人間だと信じていたい。「おかしい」なんてことは、自分の中でわかっていればいいことであって、他の人から言われたくはないなあなんて、あの頃のことを思い出しています。

ダイアログインザダーク

闇は、怖いものではありませんでした。

 

お化け屋敷が嫌いです。暗い中で、どこから、何が襲ってくるかわからない。心臓が痛くなるような緊張感と、不安感は耐え難いものです。先の見えない暗闇は、恐ろしいものだと思っていました。

 

ダイアログインザダーク。目の見えない真っ暗闇の世界を「暗闇のエキスパート」である視覚障害をお持ちのアテンドさんに案内されながら体験するものです。以前から興味はあったのですが、この8月で会場がクローズしてしまうとのことなので、予約をして行ってきました。

ひとりで参加したため、参加者は皆知らない人。年齢や性別は顔を見ればわかりますが、顔を合わせたらすぐ暗闇に入ってしまうため、どんな顔つきだったか、いくつくらいだったか、わからない状態で行動を共にします。

不思議なことに、年齢はまちまちの参加者でしたが、声は皆若々しいのです。顔だけ見ると、それはもちろんその年齢なりの雰囲気があるのですが、声には、本人の内面的な若々しさが映し出されていた気がします。あるいは、相槌のうまい人がいたり、安心感を与える話し方をする人がいたり。おそらく、顔を合わせていては気づくことのできないその人の内面の良さを、音によって掬い取っている感じがしました。

 

近くに誰がいるのか、誰もいないのか、足元に何があるのか、何もないのか。暗闇の中では、何もわかりません。何かにつまずいて転ぶかもしれない。大きな不安を感じます。ただ間近で聞こえる声と、手に触れた確かな感触だけが頼り。前を歩く人の背に手が触れると、大きな安心感がありました。

それでも、参加者同士の声かけが増えるにしたがって、闇に慣れてきます。たしかに何も見えないことへの恐怖心はあるけれど、楽しむ気持ちが湧いてきます。何も見えないからこそ、手に触れていない世界には大きな広がりがあり、可能性があります。

 

人と話しているとき、その人の顔つきや表情を見て、「きっとこういう人だろう」と決めつけて話してしまうことがあります。しかし、そのような先入観を持っていると、その人の本質を見ることができないかもしれません。

どんな顔をしているかではなく、何を言っているか。どんな服を着ているかではなく、どう考え、行動しているのか。その人の内面が表われ出る部分に注目し、人と関わっていきたい。そう感じた90分間でした。

 

もしまた、関東に会場ができたら、ぜひ参加したいと思います。

 

ダイアログインサイレンス

「静けさの中の対話」へ行ってみて。

 

ダイアログインサイレンスとは音のない世界を体験する企画です。参加者は音を遮断するヘッドホンを付け、聴覚障害をお持ちのアテンドさんに案内され、音のない世界での対話を楽しみます。

 

ヘッドホンをつけてまず感じたのは、自分の唾液や心臓の音がうるさいということ。特に唾液を飲み込む音は頭の中で響き、なんともきもち悪い感覚でした。

アテンドさんに案内されるままに進んでゆき、いくつかの遊びを体験します。アテンドさんは表情も身ぶり手振りも豊かで、とってもかわいらしい感じ!ですが、言葉による説明がないので、遊びのルールを説明されても、いったい何をすればいいのか?なかなか理解できません。わかろうとすると、アテンドさんの表情や動きに目を凝らすことになり、自然と目で見ることに集中していきました。そういえばいつの間にか、唾液や心臓の音もぜんぜん気にならなくなっていました。

言葉とは便利なもので、言葉にすれば、言いたいことを伝えた気持ちになってしまいます。でも、音声のない世界では、相手に伝えるためには、恥を捨てて表情や身ぶりで示さなくてはいけない。そして、相手をよく見て理解しないと、伝えたいことがわからない。今回、普段のコミュニケーションで、いかに自分が表情で伝えることをさぼっていたのかを実感しました。

参加者の方もさまざまでしたが、大きな笑顔と大げさな身ぶりにすぐに慣れ、楽しそうに活動されていた方もいました。その適応力というか、柔軟性に感心しました。私は恥ずかしさを捨てきれなくて、なかなか振り切った表情や身ぶりはできなかったので……。

遊びの中にはアテンドさん対参加者のものもあれば、参加者同士の交流を求められるものもあり。初めは目を合わせ、そのうちコミュニケーションを取って行くことで、見知らぬ人とも連帯感が生まれてきます。

今回ひとりで参加をしましたし、周りは2人で参加されている方も多かったですが、そのことによって疎外感を感じることはありませんでした。

 

最後に、アテンドさんや参加者同士で対話する時間をいただきました。印象に残っているのは、「同じことをわかっているもの同士は、つながることができる」というアテンドさんの言葉。

音声のない世界は、健常者である私にとっては新鮮なものでしたが、音の聞こえない方にとっては当たり前のもの。お互いの知っている世界が違うのだから、わかり合うためには、互いの世界を知ることから始める必要があると感じました。

 

ここから手話を勉強することにまで繋げられれば、さらによいなと思いつつ。自分の知らない世界があることや、認識している世界の狭さがわかったことだけでも、すてきな経験を得ることができた90分間でした。

不登校の子に、学校は何をしなくてはいけないのか。

不登校の子供の多くは、どんなに割り切っているように見えても、やはり心のどこかに後ろめたさを感じているものだと考えています。私の場合はそうで、修学旅行に行かなかったこととか、入学した原籍校を卒業しなかったこととかを、未だに残念に思い出します。不登校の時期があったからこそ今の私がいるので、後悔しているわけではありませんが、それでも「ちゃんと学校に戻れたらよかったなぁ」と思います。

不登校の子たちと話をしていても、やはりそれを感じます。もう何年も学校に行っていなくて、特にそれを気にしていないように振舞っている子でも、ふと学校の話題が出ると表情が変わったり、「制服を着たことがない」などと自虐的に笑ってみたりします。心のどこかで、学校のことを意識しているのです。

「みんながふつうに学校に通っているのに、自分は行けない」と劣等感を抱くのは、つらいものです。(「行けないのではなく行かないのだ」と捉えられたらよいですが、それも難しく。)もし何の疑いもなく、楽しく、毎日学校に行けるのであればそれが何より良いことです。どの声かけで、どのタイミングで力が湧いてくるかわかりません。子どもに働きかけ続けることは、学校の使命なのではないでしょうか。

 

どんな働きかけをしたらよいのか。不登校だった私が救われた言葉は、「つらいなら学校に行かなくていいんだよ」というものでした。学校に行けない自分を許すのは、本人には難しいことです。また、子供を心配する保護者の方が言うには、勇気の要る言葉です。私は学校の先生にこそ、「つらいなら行かなくてもいい」という言葉を言ってほしいです。

しかし現場に関わっていると、学校の先生は、「行かなくてもいい」なんて言葉を口が裂けても言えないのだとわかります。子供には学びを受ける権利があり、「行かなくていい」という発言を学習権を否定するものだと受け取られてしまうと大変なことになります。

だから、学校は基本的には、不登校の子たちに「来てね」「待ってるよ」と言うことしかできません。

 

その上で学校ができるのは、連絡を絶やさないことです。電話や家庭訪問を教員と保護者、双方の負担にならない頻度で継続することは、大人同士の人間関係を築くことに役立ちます。保護者と教員の信頼関係があれば、子供も「先生の言うことに耳を傾けてみようかな」という気になるかもしれません。また、先生が家に来るだけで、子供は学校の雰囲気を感じます。「行ってみようかな」という気になるときがあるかもしれません。そうしたきっかけを生み出す可能性があるので、家庭訪問や家庭連絡は必要なのではないでしょうか。

パワーのない状態の子に、大人ができることは環境を整えることくらいです。その子が力を蓄えるために、どんなことが必要か。協力して考えていくと、良い効果が得られるかもしれません。

 

「こうしたら学校に行けるようになる」とか、「こうしたら学校に行かなくても幸せに生きる力が身につく」とか、はっきりしたやり方があればいいのに、難しいですね。

そんなことをつらつらと考える夏の日でした。

どこまで咲くかなチューベローズ。

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 お花屋さんで目に留まったお花を買いました。白い小ぶりな花がかわいい。チューベローズというそうです。

 

芍薬の花が咲いたのが嬉しかったので、つぼみのついているものを買ったのですが……買ってから調べたら、花が咲ききるまで育てるのは難しいらしく。どこまで咲かせられるかなあ、とわくわくしています。

 

ただいま、100均で買ったバケツで水揚げちゅう。少しずつ道具を揃えたいものです。

フォンダンウォーター。

ちょっとおしゃれなご飯屋さんに行くと、お冷やがただの水ではなく、レモンが浮かんでいます。わたしは、あのほんのりした爽やかさが好きです。

だからデトックスウォーター、というのにも、ずっと興味がありました。生のくだものを水につけて飲むという、単純な代物。最近流行っているようです。レモンをつけただけの水だっておいしいのに、オレンジやらリンゴやらスイカやらを入れて、おいしくないわけがないじゃありませんか。

 

でも、生のくだものって高いのです。切るのも手間だし、水につけるくらいならそのまま食べてしまいたい、もったいない、という気がして手が出ませんでした。

 

インターネットで何かと検索するのが趣味のわたしが、デトックスウォーターの代わりに見つけたのが、これ。

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容器は、300円均一で買ったもの。 下に沈んでいるのはドライフルーツです。生のくだものではなく、ドライフルーツを水につけて飲むという、フォンダンウォーター。韓国で流行っているそうです。

 

砂糖不使用のドライフルーツがよいとのことで、近所のスーパーで買った柿やレーズン、アプリコット、クコのみ、イチジク、キウイなどのドライフルーツを無造作に突っ込んで、冷蔵庫で冷やし、今日職場に持って行きました。(ただドライフルーツを入れただけでこの見た目の華やかさ。気分が上がる効果もありました。)

飲んでみると、かなりしっかりとした甘さ。ただ、くだもののチョイスが適当すぎて、はじめにふわっとレーズンが香り、柿ともアプリコットキウイともつかない甘みが立ち上り、ほんのりとした後味が残るというふしぎな味わいでした。

それでも美味しかったのですが、インターネットで歌われている統一感のある組み合わせの方が、おいしく飲めると思います。

 

ドライフルーツのいいところは、日持ちするところ。いろいろ買い集めて、さまざまな組み合わせを試すことができそうです。最近暑いので、次はさっぱりした柑橘類やトマトのドライフルーツをどこかで手に入れたいと、楽しく画策しています。

「通うのが楽しい」という心理

わたしたちが仕事のある日は毎日職場に向かうように、子供達は毎日学校に通っています。部活に入っていれば、休日も両方。大人が職場で過ごす以上の時間を、学校で過ごしている子もたくさんいるでしょう。彼らにとって、学校というのは、生活のかなり大きな要素を占めるものです。

 

わたしが中学生のころ。学校とは、行きたくない場所でした。学校に行くことを思うとお腹が痛くなる。泣きたくなる。不機嫌になる。起き上がれなくなる。手を無理やり引かれても、校門の前で足が止まってしまう。心だけでなく、体が拒否していました。空気を読んで、みんなと同じことをするのが苦手でした。そのせいで集団に馴染めなくて、排斥されて、それがとても怖かったのです。

高校も、それが理由で、わざわざ単位制(授業によってクラスが違う、大学のような制度)を取り入れている学校を選びました。毎日同じメンバーで授業を受ける普通の高校では、うまくやれないと思ったのです。

そんなわたしが今、毎日仕事に行くのが楽しみだと思っているなんて、ふしぎなことです。毎日同じ場所に行って、毎日同じ人と会う。やっていることは中学生のころと大して変わらないのに、それをゆううつだと思う気持ちがないのです。なんでだろう。

 

仕事柄、中学生と接することが多くなりました。彼らと話をしていて、驚くことがあります。わたしは「学校なんて行きたくないのは当然だ」と思っていたのですが、彼らの多くは、「学校に行くのは楽しい」となんの疑いもなく言うのです。なんでだろう。

 

とても不思議です。

自分が仕事で、固定された集団の中でそれなりに楽しくうまくやれていることも。しかしそれが、多くの中学生(そして多くの人)にとって、疑いもなく当たり前であることが。

 

わたしはやはり、「学校なんて行きたくないはずだ」「同じ場所に毎日通うなんてつらいはずだな」と思います。だからこそ、「通うのが楽しい」と感じることは、本当はとてもすごくて、幸せなことです。

その幸せを噛み締めながら、明日も出勤しようと思います。