おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

夾竹桃には毒がある。

【詞書】 

夾竹桃は、道端を歩いていると必ず目にするほど、メジャーな植物です。この時期には鮮やかな桃色の花を咲かせます。なかなか美しいもので、千葉市広島市などでは市の花として愛でられているものです。

 

その夾竹桃を目にするたび、わたしは小学生のころに見たテレビ番組を思い出します。あの頃、バラエティ番組で夾竹桃の危険性について取り上げられているのを何度も見ました。その中でも思い出深いのが、「バーベキューをしていて、箸の代わりに夾竹桃の枝を使った若者が、熱によって溶け出した毒でしんでしまった」というものです。そんな恐ろしい植物が当たり前のようにそこらに生えているなんて。間違えて食べたり、折った枝を舐めたりしたらどうなるのだろう……と、底知れぬ不安感に苛まれたものです。

 

私にとって、夾竹桃は、死のイメージと密接に関わるものでした。死とは、あのきれいな桃色の花びらに隠れて、虎視眈々とこちらを窺っているもの。だから、足元を掬われぬよう、警戒しなければならない。迂闊に手を出すと、夾竹桃の毒性にやられて、命を落としてしまうわけです。

 

私は今でも、夾竹桃を見ると、死というものに思いを馳せます。

 

今朝、職場に向かう道すがら、桃色の花を咲かせた夾竹桃を目にしました。先週の疲れが未だ抜けず、なんだか風邪も引き始め、仕事は全然終わっていない、ゆううつな朝です。せっかく空は晴れて爽やかな風が流れているというのに、気づけば視線は爪先、もしくはスマホの画面。かかとの磨り減ったパンプスでかつかつと情けない音を立てながら、他の人の半分くらいの速さで歩みを進めていました。横断歩道に差し掛かり、ふと視線を上げると、視界の端に桃色が揺れたのです。かわいらしい花を咲かせた、夾竹桃が。

 

「この花を食べたらどうなるんだろう」

例によって、私は考えました。

「このきれいな花を食べてしぬなら、悪くないかもしれない」

例によらず、肯定的なイメージを持ちました。

そしてそのことに、はっとしました。

 

夾竹桃の花に、毒性があるのかはよく知りません(きっと枝だけ)。けれど、もしあの花びらに、その外見からは想像もつかないような毒が秘められているなら。

あの薄い花びらをくしゃりと噛んで、花びらの苦味と蜜のささやかな甘みに眉をひそめ、しゃくしゃくと咀嚼し、嚥下して。そしてそのちょっとした気まぐれによって、羽を伸ばし、この重苦しい世界から飛び立てるのだとしたら。

まあ、それも悪くはないなあと、そう思うわけです。

すっかり、大人になってしまいました。

 

砂糖菓子みたいな色の夾竹桃 口に含めば楽になるかな

 

 

 

母について思うこと。

私の母は、かわいそうなひとです。

 

母は、厳しい祖母と優しい祖父のもとで育ちました。祖母は「手に職をつけなさい」と母を家政系の短大に行かせ、卒業後は祖父の口利きで大手企業の一般職に就職。同期の若い女の子達と合コンやイベントやサークルに勤しみ、そこである男性に出会いました。一流大卒で、背は高く、鼻も高く、スマート。一部上場企業に入社して、将来有望。しかも年下。今まで女性経験がなかった彼は、恐らく母にころっとやられ、そして結婚しました。それが父です。

父と母には、子供が三人生まれました。家を建て、安定した生活が始まります。母も好きな事を仕事にし、充実した日々を送っていました。

 

暗雲が垂れ込め始めたのは、祖父が認知症になったころです。(祖母は早くに亡くなっていました。)認知症の祖父を介護するために同居し、ヘルパーの資格も取りましたがやはり限界があり、グループホームで生活してもらうことに。そして母は、仕事を探してフルタイムで働き始めます。

それと同時期に、父が家を出て行きました。愛人と暮らすためです。

 

 家庭も、子供も、そして何より親の介護でつらい思いをしている自分を見捨てて、父が愛人を選んだ。母のプライドは傷つきました。しかも父が選んだ相手は、年こそ母より若いものの、顔はいまいちだし、太っているし、派遣なのです。何がいいのかわかりません。だからこそ、深く深く傷つけられました。

 

一度は「親権なんていらない」とお互いに押し付けあいましたが、母はやはり子供を育てたいと決めました。子を育てるのには、お金がかかります。そこで母は「子供のために」離婚しないことを決めました。

父には婚費を請求し、養育費をいくらにするかも調停で争い。その後も調停から家庭裁判まで争い続け、婚費を貰い続けました。

その間も、子供達は母の苦労も知らずに不登校になったり学校でいじめられたりネットで知らない異性とやり取りをしたり、その対応に追われます。ようやく解決して大学に行かせた娘が、今度は母の苦労も知らずに恋人をつくり、浮かれたそぶりを見せたりする。配慮がないのです。「彼の家に泊まりに行きたい」というので、今まで設けていなかった門限を設けました。何かあったとき、傷つくのは娘だからです。クリスマスも出かけていたので、「家族と過ごすものだろう」と叱ってやりました。実家で暮らしている以上は、家主である母の言うことに従うのが当然です。「それなら一人暮らしをする」と娘が言いましたが、「彼と暮らすなら縁を切る」と行って阻止しました。娘は最終的には、母を悲しませるようなことはしないのです。

 

ある日娘が「彼が、お母さんと私の関係は変だっていう」と相談してきました。「私もそんな気がするけど、どうなんだろう」と。娘にそんな悩みを持たせるその男に腹が立ちました。「別れればいいじゃない」と何度も言っていたら、ぎくしゃくしだしたらしく、娘は別れました。彼は未練がましくしていましたが、母が出て行って、別れさせました。娘には会わせませんでした。

 

かて、父との離婚争いが十年ほども続いたころ、娘が「もう別れてもいいんじゃない」と言いました。確かにその頃母には恋人がいましたが、その人と結婚は考えていませんし、何より離婚しないのは子供のためなのです。裏切られた気持ちになりました。「あなたのためにこんなに苦労しているのに、そんなこと言わないでよ」と泣いてしまいました。

 

やがて子供達がみな高校を卒業し、ようやく離婚を成立させました。大手を振って恋人と遊べるようになり、母はしょっちゅう旅行にいき、イベントごとは彼と過ごすようになりました。クリスマスも、お正月もです。

 

最近、娘が「結婚したい」と言い始めました。相手は、なんと自分を「変な親だ」と侮辱した彼だそうです。信じられない。裏切られたような気持ちになって、聞いた瞬間に泣いてしまいました。「私を変な親だって言った男と結婚するの」と聞いたのに、娘は「変な親だよ」と逆に言ってきます。「それなら彼に謝ってほしい、私に失礼なことを言ったんだから、親として言うべきことがある」と言うと、「彼も謝るために、会いたいって言ってるよ」と。「二度と会いたくない、顔も見たくない、それでも彼を選ぶなら好きにして」と言ったら「好きにしていいなら好きにするけど」との答え。なぜこんなに娘のためを思ってやってきたのに、裏切るようなことばかり言うのかわかりません。

 

自分は悪くないのに旦那には捨てられ、女手一つで育てた子供も自分への理解が足りない。だから、母はかわいそうなひとなのです。同情の余地があります。

誰に話しても「女手一つでそこまで育ててくれて、おかあさんに感謝しなさい」と言われます。たしかにそうかもしれません。

感謝はしていますが、だけど私は、自分は母の「かわいそうさ」のあおりを一番受けていると思います。母は自分がかわいそうだから、誰かに認めて欲しくて、報われたいのです。認めるのも、報いるのも、私の役目なのです。でも、そんなことを言ったとしても、「私にどうしろって言うの」と泣き出すので、何も言えません。 ただ、「おかあさんは自分のできることを精いっぱいやってると思うよ」とぬるま湯のような言葉をかけるだけです。

 

母には反抗できません。私は母と自分との関係を考えれば考えるほど、母の「かわいそうさ」と、そのフォローを強いられてきた自分自身を見比べ、釈然としない気持ちになるのです。

ありのままの自分でいられない。

お題「好きな短歌」といえば、これ。

 

 「すきすき」はきらい「うそうそ」ならほんと2回言ったらさかさまの刑(伊勢谷小枝子)

 

 

少し前、「ありのままの姿見せるのよ」という歌詞が一斉を風靡しましたけれども。私は「ありのまま」でなかなかいられない人間です。

人と交流するうえで一番恐ろしいのは、ありのままの自分を否定されること。

 

中学生のころ。私は学級委員をやったり部活の副部長をしたり、勉強も得意。友人もいて、楽しい学校生活を送っているつもりでいました。教室にはあまり居場所はなくて、ひとりで本を読んでいることもあったけれど、特に気にしていませんでした。ですがそれは装おった自分の姿で、友人に囲まれて盛り上がっている人たちは羨ましかったし、行事の中心になっている人たちはまぶしく見えました。そういう集団の盛り上がりと、自分とは、一線を画したものである感覚がありました。

本当は集団になかなか適応できないところがあるのだけれど、自分も他人もそれを認識していなくて。ぐらっと崩れたとき、その素が出てきて、そして学校に行けなくなりました。

不登校になる要素を孕んだ、集団に不適応な子ども。それが当時の私の、「ありのまま」でした。

 

ところが母はそんな私を受け容れることができなくて。十年近く経った今でも覚えています。

 

「あなたが家にいると嫌だから、お金をあげるから昼間は外で遊びなさい」

「おばさんに連絡してあるから、電車に乗ってそこまで行きなさい」

「そんなふうに育てた覚えはない」

 

そうした言葉をかけられて、そして傷つきました。自分の素の姿は、自力ではなかなか変えられないものです。その、変えられないものを否定された時のダメージは、大きい。私はそれから、ありのままの自分を否定されるのが怖くて、自分の思うことをますます言えなくなりました。

 

今でも、その片鱗はあります。自分の思うことを素直に表現するのが苦手。もし素直に表現して、そして「そんなのおかしい」とか「理解できない」とか言って否定されるのが、それで傷つくのが怖いのです。

 

「すきすき」なんて軽々しく言える相手のことは、ほんとうは嫌い。

「うそうそ」なんて冗談めかして言えることこそ、ほんとのこと。

 

そんなあまのじゃくな自分には、「さかさまの刑」を与えてやりたいとおもう。「さかさまの刑」という言葉はなんとも可愛らしくて、自分を責める厳しい気持ちを、和らげてくれる気がします。

卒業式は、「病んだ少女」からの卒業だった。

今週のお題「卒業」について。

小学校、中学校、高校、大学と「卒業式」なるものは人生で4回ほど経験してきた私ですが、何よりも印象深いのは、中学校の卒業式です。

あれは、ただ義務教育を修了したというだけではなく、もう少し意味のあるものでした。

 

「病んでいる」という状態をどう定義するかは難しいですが、中3の私には、年不相応に大人びて見せるところがありました。比較的落ち着いた学校だったのですが、体型や髪型と言い、服装と言い、校風にそぐわないものでした。私生活も同様で、20代前半のある男の人と仲が良く、塾をサボって彼の車であれこれしていました。(彼の名誉のために言っておくと、厳密には、「手を出され」てはいません。一線は、いちおう越えなかったので。)

 

父に捨てられ(と、当時は思っていました)、母も頼りにできなかったその頃、私が頼りにできるのは学校や塾の先生たちだけでした。しかし、先生もお仕事。構ってくれと言えば構ってくれますが、他の子が構ってくれと言っても構っています。愛に飢えた私にとって、それでは物足りなかった。誰かに自分だけを見てもらって、べたべたに甘やかされたかった。それにちょうど都合よく当てはまったのが、その男性との関係でした。

 

荒んだ書き方をしてしまいましたが、あの頃はとても楽しかったです。若くてイケメンで、女の子にももてるような男性が、私のことを構ってくれるのです。その優越感たるや。「好き」とか言われて、平日の仕事終わりにも、休日にも会ってくれる。車の助手席に乗って、信号待ちのときに手を握る甘やかさなんて、今でも思い出すと少しうっとりしてしまいます。「つき子が卒業したら、俺たち、ちゃんと付き合うんでしょ?」と言われたりして。少女漫画みたいな、そんな感じでした。

それはそれで思い出として美化されていますが、しかし、不健全であることに変わりはありません。今私が彼と同じ年齢になってみると、中学生なんて恋愛どころか、性愛の対象にすらなりません。本気(かどうかわかりませんが)で「付き合うんでしょ?」とか言ってる男性もちょっと変だし、そうでなければ私がよほど年齢に見合っていなかったのでしょう。何にせよ、普通でないことは確かです。

 

 その「普通でなさ」に気づいたのは、中学校の卒業式のときでした。式の後、制服のままで、彼とのツーショットを母に撮ってもらったのです。そういうことをしても、不自然ではない相手でした。

母が、嬉しそうに携帯のカメラをこちらに向ける。私も彼も普通にし並んで立っていますが、ふたりの間にあるものを、母に告げることは絶対出来ない。祝福されるべき卒業式なのに、どことなく漂う背徳感。そこに、違和感を覚えました。

そして、シャッター音。なぜだかわかりませんが、彼への気持ちは、そのシャッター音と共に、区切りが付いてしまいました。

 

中学を卒業してからも何度か彼に会いましたが、その頃のようなときめきも、どきどきも何にもなくて。車に乗るだけであんなに嬉しかったのに、それすら面倒臭くて。彼との関係は、中学時代の遺物だったのでしょう。私の心は、これから始まる新しい学校生活にすっかり奪われていました。高校に入ってからも、「年上と付き合ってる」なんて言ったら変な目で見られそうで。結局、入学後は一度も会わず、連絡を絶って関係が終わりました。

 

何故、卒業したら彼に魅力を感じなくなったのか。今でも疑問に思います。あのまま一緒にいたら、今頃どうなっていたのだろう、とか。

理由は謎のままですが、少なくとも高校からは、比較的「健全」な路線を歩んでいます。私にとって、不健全なルートから舵を切ったタイミングである中学校の卒業式こそが、「『病んだ少女』からの卒業」なのでした。

不登校のゴールとは、どこにあるのか。

 この間のブログに書いた講演では、聞いてくださった方々から、感想をいただきました。その中で印象的だったのが、次のような内容のものです。

 

不登校を乗り越えた、という趣旨の講演会でしたが、お話しされた方は、まだ不登校に苦しんでいるように感じました。」

 

その通りです。

 

私は、ある意味では不登校を乗り越えましたが、ある意味では乗り越えていません。

 

文部科学省の定義によると、

○「不登校」とは,何らかの心理的,情緒的,身体的,あるいは社会的要因・背景により,児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者 (ただし,「病気」や「経済的理由」による者を除く。)。

を指します。その定義においては、私は不登校を抜け出しています。中学校には行かない時期がありましたが、高校、大学と休みなく通学することができましたから。

 

さて、ここで、改めて私がなぜ不登校になったのか、という理由を掘り下げてみようと思います。

 

1.自分の性格に由来するもの

私は、中学時代にクラスでいじめを受けていました。当時はいじめ、ということを認めたくなくて否定していたのですが、日頃から聞こえよがしに悪口を言われ、クラスメイトには無視され、風邪で休んだ翌日には机に落書きをたくさんされていたので、やはりあれはいじめと呼んでよいでしょう。

そんな状態では学校が楽しいはずもなく、いろいろショックを受ける出来事が重なって、学校から足が遠のいていきました。

そもそも、なぜいじめられるような事態になったのか。「いじめられる本人に問題がある」という言い方は決してしてはいけないと言われますし、私も相手が少し変わっているからと言っていじめてよいとは思いません。しかし、当時の私を振り返ると、いじめられやすい要素は持っていました。

たとえば、周りに合わせて話ができないところ。当時クラスでは下ネタが大流行しており、私の友人も口々にその手の話題に乗っていました。特にそういうものに対して潔癖なまでに嫌悪感を抱く私は、そういうときには嫌そうな顔をして黙っていました。適当に合わせてヘラヘラしていた方がうまくいくのに、それができなかったのです。そうこうしているうちに、仲良しと距離が開いていき、疎んじられるようになっていきました。

内向的でしたし、休み時間には本を読むような子供。まじめで、何の面白みもない。外見にもさほど気を遣っていなかったので、「キモいキモい」とよく言われていました。

今では外見には気を遣うようになりましたが、内向的なところ、人と同じことができないところ、周囲の空気を読んで合わせられないところなど、内面はあまり変わっていません。

 

2.家庭環境に由来するもの

まるで昼ドラみたいな、父母ともに家庭外の異性とずぶずぶと家庭で育ちました。家庭が荒れ出したのが中学生のころ。その煽りを受けた結果、不登校につながったようにも感じます。母は精神的に不安定で、とても相談できる状態ではありませんでしたから。

今でも実家は微妙な状態ですし、私がそういう家庭で育ったこと、その影響を十分に受けたことには変わりありません。

 

わざわざこうして挙げたのは、不登校の原因になった事柄が、根本的には何も改善されていないことを示すためです。

原因が改善されていないという点では、私は未だに不登校を乗り越えてはいないのです。

 

そもそも、不登校になったとき、その目標は「克服すること=学校に通うこと」ではありません。それは確かに、通いたくても通えない苦しい状態よりは、学校に楽しく通えた方がよいでしょう。ただし、学校に通えたからといって、集団生活に馴染むのが苦手だという性格などが、まったくなくなるわけではありません。

むしろ、そういう性質が自分にあるのを認め、折り合いをつけていくことこそが、不登校の子供が幸せに生きていくために必要なことなのではないでしょうか。

「人と同じことはできないけど、それは個性として認めてもらうしかない。」と諦めたり、「集団行動は苦手だからつらいけど、ここだけはちょっと頑張っておこう。」と踏ん張ったり、「集団に馴染めないから、自分のことをわかってもらえそうな、少人数の職場で働こう」と決断したり。

自分のことをよく知り、努力すべきところとしなくてよいところ、努力してできることとできないことをはっきりさせ、自分が苦しまずにできる範囲を模索してゆく。その結果、社会で楽しく生活できるようになることこそが、大切なのだと思います。

 

学校に通うことではなく、社会で自分の個性を殺さずに生きていく力を身につけること。それが、不登校のゴールだと考えています。

 

どんな親であってほしかったか。

以前、ご縁があって、不登校の親の会で体験者としてお話をさせていただいたことがあります。

不登校の子を抱えて、多かれ少なかれ困っていらっしゃるだろう保護者の方たちに、経験者として何を伝えたらよいのか。不登校の親の会に参加すること自体からも、自分の子のために何かしたいという愛情を感じられます。そこで、そんな保護者の方の気持ちが、少しでも明るくなるような話をしたいと考えました。

1時間弱の待ち時間の中で、自分の経験や考えを話したのですが、そのとき伝えたかったことは、ふたつあります。

 

1.渦中にいるときは、説明なんてできないこと。

不登校のときどんなことを考えていて、何が嬉しくて、何がいやで、どうしてほしかったのか。どうしたら、前向きになれそうなのか。

不登校の子を持つと、どう接したらよいものか、悩むこともあります。親である自分はこんなにも悩んでいるのに、子どもはのうのうと部屋にひきこもったり、のんきにテレビを見たり、ふつうに生活したりしている(ように、見える)わけです。危機感のない、あるいは改善の見られない姿に、いらいらすることもあるでしょう。

でも、子どもだって、何も考えていないわけではありません。自分なりに悩んだり苦しんだりしている時間もあるわけですが、その苦しみの渦中にいる間は、うまく言語化することができないのです。

暗い世界しか知らない人は、きっと「暗い」という言葉を使いません。光があることを知って初めて、光がある状態と比較して、「暗い」と表現するのです。同じように、不登校の渦の中でぐるぐるとしているときは、その状態を表現する言葉がありません。その渦から少し離れ、渦の外にいる状態を知って初めて、「あのときの自分はこうだった」と語ることができるようになります。

不登校の子も、きちんと成長しますし、前に進むことができます。今は語る言葉を持たなくても、あるとき、ふと「あのときはこうだった」という言葉が出てくることもあるでしょう。

学校に行けていない今、その理由や心境を、わかるように説明できることは難しいです。だから、子どもがあまり自分のことを話さないからといって、見放さないでほしいと思いますり

 

 2.子どもの居場所であってほしいこと。

大木が地面に根をはるように、人には拠って立つ場所が必要です。自分の素を見せても、受け容れてくれるひと。そういう人がいることによって、安心感を得られます。

不登校の子どもにとって、学校は自分の居場所ではありません。人間関係が問題かもしれないし、学校というシステム自体に馴染めないのかもしれないし、理由はさまざまですが、学校にいても安心できないから、行きたくないのです。

そんな子どもの生活の中心は、基本的には家庭になります。現実的な人間との関わりも、家族がほとんどになるでしょう。そんな子どもにとって、家庭が居場所であることは、必要不可欠なのです。

学校に居場所がない子どもを、家では親が「何で学校に行かないんだ」と頭ごなしに責めたり、「そんなふうに育てた覚えはない」と強烈に否定したりしてはいけません。家にも居場所がなかったら、どこへ行ったらよいというのでしょうか。まずは家族が、子どもの辛い思いを汲んで、味方でいてあげることが大切です。

 親も人間ですから、うんともすんとも言わない子どもを見ていると、腹が立つかもしれません。しかしそれは、反抗心ゆえに何も言わないというよりは、先述した通り、「渦中にあるから言えない」状態です。自分でも、どうして学校に行けないのかわからなくて、でも行けないのです。保護者の方にはぜひ、あまりいらいらした姿を見せず、家庭を子どもが安心して居られる空間にしてあげてほしいと思います。

 

自分自身が不登校だったときには、母に「学校に行けないなら面倒見たくないから家を出て行け」と言われ、着の身着のまま追い出されたことがありました。(私は、その心無い仕打ちについて仕方ないとは思いつつも、未だに根に持っています。)そんな経験を踏まえ、やはり保護者の方には子どもの理解者であってほしいと思うのでした。目に見える反応が今はなくても、子を思う親の気持ちは、いずれその子に伝わるはずです。

上を向いて歩けば、空が見える。

【詞書】

最近、空を見上げていますか。

 

総務省の平成27年通信動向調査によると、個人の情報通信機器の保有状況について、「スマートフォン」(53.1%)、「携帯電話(PHSを含む)」(35.1%)という結果が得られたそうです。スマホとその他の携帯を二台持ちしている可能性もありますが、今や日本ではおよそ8割のひとが、スマホや携帯電話を所持しているということになります。

携帯電話は便利なもので、どこにいても誰とでも連絡を取れますし、インターネットサーフィンだって思うがままです。

私も、信号待ちの時間など、ふと手持ち無沙汰になった場面で携帯を見てしまいます。メールを見たり、ネットの記事を読んだり、何をするわけでもないのですが。周囲の風景より、画面を意識して見る時間の方が長いかもしれません。

そんなわけで、空を見上げることも、少なくなってきています。

 

たまに、ふと見上げた空には、さまざまな表情が浮かんでいます。青い空に、絵の具を溶かしたようにまだらに広がる白くて薄い雲。あるいは、最近飛び始めたメジロ(のような、黄緑色の鳥)。あるいは、きれいなグラデーションになった夕焼け。

その美しさにふと目を奪われるとき、その度に、携帯の画面を見つめて視野が狭まっていた自分に気がつきます。顔を上げて広い空が見えると、視野も広がるのです。

 

そうした視野の広がりを特に感じるのが、朝です。私は、朝はだいたい憂鬱です。なぜなら、仕事に行きたくないから。

仕事は楽しいですが、休めるなら休みたいものです。できることなら働きたくないし、働くにしてもできるだけ楽にやりたい。でも、そんな楽をしてなんとかなる仕事ではありませんから、気が重いのです。職場に向かう足取りは自然と重く、足元ばかり見つめて歩いてしまいます。

 

通勤の途中に、坂道があります。最寄りの駅が高台にあるので、比較的急な坂道を下りて行きます。その坂道の上に立つと、目の前が開けて、空が見えます。

天気の良い日に、その空を見ると、少し気持ちが晴れるのです。

 

この間は、朝のすがすがしい空に、飛行機が一機、ゆっくりと尾を引いて飛んでいました。あの飛行機にもたくさんの人が乗っているのでしょう。旅行か出張かわかりませんが、朝早くからしっかり活動している人が他にもいると思うと、見知らぬ誰かと気持ちを共有できる気がします。

飛行機の行く先には、白い月がまだ浮かんでいます。青い空を背景に浮かぶ、はっきりとした白い月です。日が昇りきると姿を消してしまうそれを見られたことで、少し得をした気分になります。

そんなふうに空を見上げ、朝の憂鬱さを適当に晴らして、私の1日は始まるのです。

 

 

暁月に向かって伸びる航跡を追うようにして今日をはじめる