おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

どんな親であってほしかったか。

以前、ご縁があって、不登校の親の会で体験者としてお話をさせていただいたことがあります。

不登校の子を抱えて、多かれ少なかれ困っていらっしゃるだろう保護者の方たちに、経験者として何を伝えたらよいのか。不登校の親の会に参加すること自体からも、自分の子のために何かしたいという愛情を感じられます。そこで、そんな保護者の方の気持ちが、少しでも明るくなるような話をしたいと考えました。

1時間弱の待ち時間の中で、自分の経験や考えを話したのですが、そのとき伝えたかったことは、ふたつあります。

 

1.渦中にいるときは、説明なんてできないこと。

不登校のときどんなことを考えていて、何が嬉しくて、何がいやで、どうしてほしかったのか。どうしたら、前向きになれそうなのか。

不登校の子を持つと、どう接したらよいものか、悩むこともあります。親である自分はこんなにも悩んでいるのに、子どもはのうのうと部屋にひきこもったり、のんきにテレビを見たり、ふつうに生活したりしている(ように、見える)わけです。危機感のない、あるいは改善の見られない姿に、いらいらすることもあるでしょう。

でも、子どもだって、何も考えていないわけではありません。自分なりに悩んだり苦しんだりしている時間もあるわけですが、その苦しみの渦中にいる間は、うまく言語化することができないのです。

暗い世界しか知らない人は、きっと「暗い」という言葉を使いません。光があることを知って初めて、光がある状態と比較して、「暗い」と表現するのです。同じように、不登校の渦の中でぐるぐるとしているときは、その状態を表現する言葉がありません。その渦から少し離れ、渦の外にいる状態を知って初めて、「あのときの自分はこうだった」と語ることができるようになります。

不登校の子も、きちんと成長しますし、前に進むことができます。今は語る言葉を持たなくても、あるとき、ふと「あのときはこうだった」という言葉が出てくることもあるでしょう。

学校に行けていない今、その理由や心境を、わかるように説明できることは難しいです。だから、子どもがあまり自分のことを話さないからといって、見放さないでほしいと思いますり

 

 2.子どもの居場所であってほしいこと。

大木が地面に根をはるように、人には拠って立つ場所が必要です。自分の素を見せても、受け容れてくれるひと。そういう人がいることによって、安心感を得られます。

不登校の子どもにとって、学校は自分の居場所ではありません。人間関係が問題かもしれないし、学校というシステム自体に馴染めないのかもしれないし、理由はさまざまですが、学校にいても安心できないから、行きたくないのです。

そんな子どもの生活の中心は、基本的には家庭になります。現実的な人間との関わりも、家族がほとんどになるでしょう。そんな子どもにとって、家庭が居場所であることは、必要不可欠なのです。

学校に居場所がない子どもを、家では親が「何で学校に行かないんだ」と頭ごなしに責めたり、「そんなふうに育てた覚えはない」と強烈に否定したりしてはいけません。家にも居場所がなかったら、どこへ行ったらよいというのでしょうか。まずは家族が、子どもの辛い思いを汲んで、味方でいてあげることが大切です。

 親も人間ですから、うんともすんとも言わない子どもを見ていると、腹が立つかもしれません。しかしそれは、反抗心ゆえに何も言わないというよりは、先述した通り、「渦中にあるから言えない」状態です。自分でも、どうして学校に行けないのかわからなくて、でも行けないのです。保護者の方にはぜひ、あまりいらいらした姿を見せず、家庭を子どもが安心して居られる空間にしてあげてほしいと思います。

 

自分自身が不登校だったときには、母に「学校に行けないなら面倒見たくないから家を出て行け」と言われ、着の身着のまま追い出されたことがありました。(私は、その心無い仕打ちについて仕方ないとは思いつつも、未だに根に持っています。)そんな経験を踏まえ、やはり保護者の方には子どもの理解者であってほしいと思うのでした。目に見える反応が今はなくても、子を思う親の気持ちは、いずれその子に伝わるはずです。

上を向いて歩けば、空が見える。

【詞書】

最近、空を見上げていますか。

 

総務省の平成27年通信動向調査によると、個人の情報通信機器の保有状況について、「スマートフォン」(53.1%)、「携帯電話(PHSを含む)」(35.1%)という結果が得られたそうです。スマホとその他の携帯を二台持ちしている可能性もありますが、今や日本ではおよそ8割のひとが、スマホや携帯電話を所持しているということになります。

携帯電話は便利なもので、どこにいても誰とでも連絡を取れますし、インターネットサーフィンだって思うがままです。

私も、信号待ちの時間など、ふと手持ち無沙汰になった場面で携帯を見てしまいます。メールを見たり、ネットの記事を読んだり、何をするわけでもないのですが。周囲の風景より、画面を意識して見る時間の方が長いかもしれません。

そんなわけで、空を見上げることも、少なくなってきています。

 

たまに、ふと見上げた空には、さまざまな表情が浮かんでいます。青い空に、絵の具を溶かしたようにまだらに広がる白くて薄い雲。あるいは、最近飛び始めたメジロ(のような、黄緑色の鳥)。あるいは、きれいなグラデーションになった夕焼け。

その美しさにふと目を奪われるとき、その度に、携帯の画面を見つめて視野が狭まっていた自分に気がつきます。顔を上げて広い空が見えると、視野も広がるのです。

 

そうした視野の広がりを特に感じるのが、朝です。私は、朝はだいたい憂鬱です。なぜなら、仕事に行きたくないから。

仕事は楽しいですが、休めるなら休みたいものです。できることなら働きたくないし、働くにしてもできるだけ楽にやりたい。でも、そんな楽をしてなんとかなる仕事ではありませんから、気が重いのです。職場に向かう足取りは自然と重く、足元ばかり見つめて歩いてしまいます。

 

通勤の途中に、坂道があります。最寄りの駅が高台にあるので、比較的急な坂道を下りて行きます。その坂道の上に立つと、目の前が開けて、空が見えます。

天気の良い日に、その空を見ると、少し気持ちが晴れるのです。

 

この間は、朝のすがすがしい空に、飛行機が一機、ゆっくりと尾を引いて飛んでいました。あの飛行機にもたくさんの人が乗っているのでしょう。旅行か出張かわかりませんが、朝早くからしっかり活動している人が他にもいると思うと、見知らぬ誰かと気持ちを共有できる気がします。

飛行機の行く先には、白い月がまだ浮かんでいます。青い空を背景に浮かぶ、はっきりとした白い月です。日が昇りきると姿を消してしまうそれを見られたことで、少し得をした気分になります。

そんなふうに空を見上げ、朝の憂鬱さを適当に晴らして、私の1日は始まるのです。

 

 

暁月に向かって伸びる航跡を追うようにして今日をはじめる

 

 

薔薇色の人生を生きたい。

昨日雨が降ったのか、今朝はすがすがしい朝でした。不思議と青みがかった空気の中で、しっとりと湿った地面や植物のみずみずしさ。波もなく、澄んだ水たまりに映る空の色。見上げた空は、さっぱりと晴れ上がっていて、ふと見た隣家の庭には梅が花をつけていました。

 

うつになると、世界が灰色に見えるといいます。リンク先は英語の記事ですが、ドイツのフライブルク大学の教授による実験の結果、うつのひとは色のコントラストに鈍感になり、世界が色あせて見えていることがわかったそうです。

 

どこで読んだか忘れてしまったのですが、先日、「心が疲れたら、周囲の色を意識すると良い」という記事を読みました。ただ、「空が青い」「花が赤い」というのではないそうです。「近くの空は濃い青で、遠くに行くにつれ白くグラデーションになっているなあ」「口紅みたいに、こっくりとした赤だなあ」など、具体的に言葉で表現するのがよいそうです。そうすることで、色あせた世界に色を取り戻すことができるのだとか。

 

 私は、和歌を読むのが好きです。高校時代に古文の先生が万葉集の和歌をあれこれ紹介してくださったのをきっかけに、いろいろと読んでいた時期がありました。

特に好きだったのが、古今和歌集の春の部立に載っていた、紀貫之の歌。

 

桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける

青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花はほころびにける

 

当時の人々の自然を見つめ、四季の変化を捉える感性は、今ではなかなかないほど鋭敏なものです。桜の花が散る空を眺め、空に水はないのに、波が立ちそうだなあと感慨にふけったり。青柳の細い糸が布を織っているようであり、桜の花は乱れて、糸がほどけるように咲いていると、ふたつのものを対比して春を表現したり。自然のワンシーンを劇的に切り取って、細やかに表現する言葉遣いの巧みさを感じます。

 

「歩きスマホ」が問題になっている昨今、街を歩いていても、携帯の画面ばかり見ていることも多いです。携帯は便利で、乗り換え案内も、目的地への道順も、待ち合わせの相手との連絡も、全て済ませられてしまう。そんな携帯に気を取られ、自然の変化に気付きにくくなってはいないでしょうか。

 

自然の変化に敏感な人間でありたい、と思います。かつての日本人のように、梅の花の香りがしてきてから、桜の花がほころび、咲き誇り、散るのを見ながら春が去るのを惜しむ。そんな風に、時の移り変わりを体感として得ていたい。そんな心のあり方が、健康な精神につながるのではないでしょうか。

居場所がほしいのです。

 

僕の居場所は、僕。

(『見てる、知ってる、考えてる』中島芭旺 より引用)

 

 

じぶんの居場所。

それを私は、ありのままの自分を晒せる場所だと考えています。もっと正確に言うと、「たとえありのままの自分を晒したとしても、この人(たち)は私を受け容れてくれるだろう」と安心していられる場所のこと。

 

人には、依って立つ場所が必要です。

立つための足場がなければ、自ら踏ん張ることができません。

 

不登校になり始めた頃、私には居場所がありませんでした。

 

クラスでは、いじめられていました。仲が良いはずだった友人に無視されていたので、肩身の狭い思いをしていました。部活は楽しかったので、日中は別室登校をして放課後だけ部活に出ていた時期もありましたが、それも周りの目が気になって長くは続きませんでした。

なによりも、家庭が居場所として機能していませんでした。 父は外に愛人を作り、私たち家族を捨てて(と、あの頃は感じていました)出て行きました。母はそのため余裕がなく、不登校になった私に「家に居られると嫌、お金あげるから外で遊んでなさい」「私はそんなふうに育ててない」「もう耐えられないから、おばさんの家にいきなさい」などという言葉をかけていました。

 今でこそ、母のそうした言葉も仕方なかったと思えますが、中学生のころはその度にショックを受けていました。

家も、「不登校になってしまうような、弱い私」というありのままの姿を受け容れてくれる場所ではなかったのです。

 

 その後、「学校に行きたくないなら、行かなくていいんだよ。」と言ってくれる大人に出会いました。その言葉に、どれほど救われたことでしょう。不登校であることを咎めないその言葉を受け、私は少しずつ学校へと歩みを向けられるようになりました。様々なサポートを得ながら、中学校最後の半年はきちんと通学し、高校に進学しました。

 

居場所さえあれば、前に進むことができます。私にとって、「学校に行かなくてもいいんだよ」と言ってくれた人がいることが、心の拠り所でした。たとえまた何かあっても、その人に相談すれば、きっと受け止めてくれる。その安心感のおかげで、高校、大学、就職と、順調に進むことができました。

 

「見てる、知ってる、考えてる」という本を、今日買いました。10歳の男の子が著者です。そこには、「僕の居場所は、僕。」という一節があります。

 

たしかに、自分の居場所は、自分なのです。それが理想です。私は今、不登校であった自分も、人とうまくやれない自分も、「変わってるね」とどこに行っても言われる自分も、きちんと認めてあげることができます。できないことがあっても、「できなくたっていいじゃない。大丈夫。」と自分に言葉をかけてあげることができます。そんなふうに、自分で自分をきちんと認められることは、大切なことでしょう。

 

でも。

 

「自分が自分の居場所」であるためには、まず、どこかで居場所を得た経験が必要なのではないでしょうか。居場所を得る、という感覚がわからなければ、どうにもなりません。

 

不登校の子どもは、いま、居場所が感じられない状態にあるのです。まわりのひとも、自分自身も、その子ども自身を否定しているように感じているのです。(たとえ周囲はその人を前向きに支えようとしていても、感じ取れないこともあります。)

 

子ども自信が、受け容れてもらえたと感じたとき。家でも、学校でも、その子が求める場所が、きちんと居場所になったとき。

 

ようやく、前に進めるのではないかと思います。

本を読むことで得るもの。

社会人になってから、新書と小説なら新書を読むべきだと感じます。新書には有益な情報、役に立つ知識が載っていますが、小説は基本的に娯楽の域を出ません。時間は限られているので、何をするにも、仕事に良い影響があったほうが良いのではないかと思うのです。

 

本を読むことは、良いことだと思いますか。あなたは、何のために本を読むのでしょうか。

 平成25年度「国語に関する世論調査」のなかで、読書について調べたものがあります。

 

読書をすることの良いところは何だと思うかを尋ねた。(選択肢の中から三つまで回答。)

「新しい知識や情報を得られること」の割合が 61.6%と最も高い。次いで,「感性が豊かになること」(40.0%)が 4 割,「豊かな言葉や表現を学べること」 (38.6%)及び「想像力や空想力を養うこと」(31.2%)が3割台,「感動を味わえること」(26.4%),「楽しく時間を過ごせること」(25.5%)が2割台半ばと続いている。

国語に関する世論調査|文化庁

 

買わせたケーキを投げ捨てるおんな。に登場した彼は、あのように、本の一節を引き合いに出して会話を始めることがわりに多い人でした。

「この間読んだ本に◯◯って場面があって、それがすごく好きなんだよね」「今の会話、△△の本にあったのと似てるね」「◇◇の本に出てきた、あの場所に似てるね」などなど。(どんな本のどんな話だったかは失念しました。)

知識をひけらかす訳ではなく、嫌味のない感じで会話は展開するのですが、私はその都度、不思議でした。なんでこんなにたくさんのことを、覚えていられるんだろう、って。

 

彼の読書は、身になる読書なのです。そんなふうに会話の中に一節が登場すれば、知的な印象を与えることができます。なによりも、好きな本の好きな部分が記憶に残っていれば、世界の見え方が変わります。彼は本を読むことで、「新しい知識や情報を得ている」わけです。

そんな彼の読書の仕方は、有意義でうらやましいものでした。なぜなら私は、まったくと言っていいほど、読んだ本の内容を覚えていないからです。

 

せっかく読んだのに、中身を覚えていないなんて、もったいないことです。

私は、同じ本は読みません。特に好きな本は何度か読んだことがありますが、買った本のほとんどは、そのまま本棚に並べられて二度と開かれることはありません。

一度読んだからと言って、本の内容を覚えているわけではありません。同じ本を二度買ってしまう、という失敗を何度かしたことがあります。まことに、もったいないことです。

 もったいないなあ、何で覚えられないんだろう。そう考えていて、ふと読書に求めるものが、違うのかもしれないと気づきました。

 

私が本を読みたくなるのは、疲れているときです。仕事が忙しくて、帰宅後も働かなければならないような日ほど、本を読みたくなります。疲れて朝の電車の座席から立ちたくなくなる時ほど、その少しの時間で本を開きたくなります。

それは、本を読むことで、つらい現実を少し忘れられるからです。色褪せた見慣れた風景も、ハッピーエンドで終わる話を読めば色鮮やかに見えるし、泣ける話を読めば切なくしんみりとしたものに見えるのです。物語の世界に思考を飛ばすことで、日常から一瞬離れられる。わたしが求めているのは、現実逃避なのです。調査の中では、「楽しく時間を過ごせること」に該当するでしょうか。

 

たとえ何も頭に残らなくても、本を読んでいる間楽しく過ごせて、読後はつかれを少し忘れて新鮮な気持ちで過ごせるとしたら、それはそれで有意義なことです。

そう思い直して、仕事に役立ちそうだけど今は読める気がしない難しい新書を後回しにして、読みたい小説を手に取るのでした。

「ふつう」と「ふつうじゃない」の狭間で。

「ふつう」でありたいと、人は願います。

 

せめて、人並みの給料がほしい。せめて、人並みの休みがほしい。せめて、人並みの幸せがほしい。そんなふうに、私たちは願います。

 

「ふつう」を辞書で引くと、「特に変わっていないこと」とあります。他の大多数のものと、変わりがないこと。その点で言うと、「不登校である」状態は普通ではないでしょう。ほとんどの小中学生は、何の疑いもなく毎日学校に通っているわけですから。

 

 中学生時代に不登校を経験した私は、自分が普通ではないと思っています。当時よりはうまく生きる術を身に付けたとはいえ、内面的なものがまるっきり変化したわけではないので、まだ普通ではない部分を持っています。

自分が普通だったらなあ、と思うこともあります。もし、家庭にも学校生活にも何の問題もなく、親の愛情を浴び、友人と円満な関係を築き、集団生活に自然と馴染める普通のひとであったならば。もっと楽に幸せになれたのかもしれないのに、と。

 

 私は、今の自分のことが好きです。今の自分は、過去の自分の積み重ねです。不登校でなければ、今の私はいません。その点で後悔はしていないし、過去の自分を否定する気もありませんが、しかし「ふつうの人だったらなあ」という気持ちはあるのです。

 

 私は今も、普通を願っています。

今の願いは、「ふつうの家庭を築くこと」。

私の家庭は片親で、しかも母は鬱っぽい時期もあり、親に甘えることのできない状況でした。だからこそ私は、普通の家庭を築きたいのです。

 

普通の家庭で育つことのできなかった私の考える、「ふつうの家庭」には、夫婦仲が良く、愛し合っていて、子どもは親に甘えられるし、わがままを言える信頼関係があります。それにお金にも困らなくて、休日はみんなでどこかへ出かけて楽しい時間を過ごすものなのです。そこには悩みもなく、精神的な不安定さもありません。

 

そんな家庭って、果たしてあるのでしょうか。

きっと私の想像する「ふつうの家庭」は、普通ではありえないような、とても幸せな家庭なのでしょう。

でも、自分の家庭を「ふつうじゃない」と思っている限り、「ふつうの家庭」には、自分の抱えている問題はないように思われるのです。

 

これは、何においても言えることで。

不登校であることを「ふつうじゃない」と思っていると、「ふつうの人」は何の問題も抱えていないように思えるでしょう。普通の人たちは、勉強もできて、人間関係の悩みもなく、学校が楽しいのだろう……と。

 

そんなことはありません。

学校に通っている子たちにも、勉強の悩みもあれば、人間関係の悩みもあります。そうした悩みがあるのは、普通のことです。悩みが深くなった結果、不登校になってしまうのも、普通のことです。

 

そんなに重く受け止める必要はないのです。

 

いつ、挫折すべきか。

就職試験の面接のため、準備をしていたとき。定番の質問のひとつに、「あなたの挫折体験を教えてください。(それをどう乗り越えたか)」というものがありました。挫折を経験し、それを乗り越えたことのある人は、同様の挫折に見舞われた時も「なんとかなる」と経験則に基づいて考えることができます。

 

ところでこれは挫折経験があることを前提とした質問ですが、「挫折なんてしたことないよ」と悩む友人もいました。

挫折経験がないなんて、幸せなことです。しかし私は、若い頃にこそ、挫折を経験しておくべきだと思います。

 

人間は誰しもが、挫折を経験します。

特に、体も動かなくなるような、もう自分の力ではどうにもならないような、気力が全て損なわれるような、そういう挫折を人生に一度は味わうものです。

問題は、それが早いか遅いかです。

 

就職したあとに、職場の人間関係がうまく行かずに悩んで、辞めてしまった人がいました。勤務環境が予想と異なりすぎて、仕事量がキャパシティを超え、精神的に病んでしまった人がいました。

大学に受かったものの、通い始めてみたら通学が徐々に苦痛になり、通えなくなって、辞めてしまう人がいました。

第一志望の高校に落ちて他の高校に行ったものの、その挫折感が拭えず、中退してフリーターになった人がいました。

 

大きな挫折に直面したとき、取れる方法は大きく分けて二つあります。乗り越えること。そして、逃げること。

しかし、どうしようもないほどの挫折感に襲われたとき、それを乗り越える元気なんてなかなか湧いてきません。とにかくまずは逃げて、時間をかけてゆっくり克服していくのです。乗り越えるためには、気の遠くなるような時間と、気力と、時にはお金が必要になります。

 

なぜ、早い時期に挫折を経験すべきなのか。

それは、リカバリーが比較的、容易だからです。

 

社会人になってから、働けないほどの挫折感に見舞われたら。診断が下れば配慮はされるかもしれませんが、辞めざるを得なくなる可能性もあります。辞めたら収入がなくなるし、再度就職するためには厳しい就活をくぐり抜けなければなりません。退職前と同じ給与を得られるかもわかりません。大学もそうです。単位を取得するためには通わなければいけないし、通えなければ留年、もしくは中退しかないでしょう。高校だって同じです。卒業できなくなってしまいます。こうした挫折は、履歴書に経歴として残ります。

 

もし、小中学生の頃に挫折を経験したとしたら。そういう状況に置かれているのが、不登校の子どもたちです。

彼らは、学校に行かなくても、状況に応じて卒業の資格を得ることが可能です。中学で不登校になった場合は、内申という形で高校入試には響いてくるでしょうが、入試の際に配慮がなされることもあります。上級学校に入ってしまえば、そこで人間関係も学校生活もリセット。やり直すことができるのです。

 

そこからは他の皆と同じで自分の努力次第です。不登校であった過去は何の記録にも残りませんし、自分から言わなければ誰にもわかりません。自分の力でどうにでもなります。

 

どうせ挫折するのなら、早い方がよいです。

大人になったら何も関係がないんだから、今は不登校だっていいじゃありませんか。不登校である自分を乗り越えて、大きくなったら、人よりも挫折に強い人間になれるはずです。