おつきさまの記。

ゆとりのある生活をしたい、ゆとり世代が日々考えたことを書き綴っています。

嗅覚から、ゆるんでいく。

今週のお題「リラックス」とのことですが、わたしのリラックスは、嗅覚から始まります。

 

わたしは、香りが気になるタイプのようです。それをふと意識したのは、「あ、この人の香りだ」と思ったとき。

それまでは「その人の香り」なんて意識したことがなかったのに、抱き合って、至近距離で香りを嗅ぐと、そのあとから隣にいるだけで匂いを感じるのです。

柔軟剤のようなやさしい匂い、お香のようなむっとした甘い匂い、ミルクのようなやわらかい匂い。いろいろありましたが、その人の思い出と、そのひとの香りは、深く結びついています。

 

好きな人の匂いはとっても癒されるし、嫌いな匂いには、いらいらする。嗅覚によって精神が左右される経験を重ねるうち、自分の意識は香りによって変えられるのだ、と思うようになりました。

 

夜、リラックスするときには、アロマディフューザーを使います。好きなのは、ゆずやレモンなど、柑橘系のさわやかな香り。その香りを嗅ぎながら、「シュー……」という水蒸気の沸き立つ微かな音に耳をすませ、目を閉じる。そうすると、鼻から入る好きな香りに、頭の中が解れていきます。

頭がほぐれたあとに、体をほぐします。ストレッチの方法をいつも調べていて、脚をほぐしたり、背中をほぐしたり、頭をほぐしたり。たまにはヨガをしたり。そうして、柔らかくなった体を柔らかい蒲団に横たえ、眠りにつくのが至福のときです。

 

あるいは、仕事の合間に、休憩をしたくなったとき。温かいコーヒーやチャイティーを、マグに淹れます。その匂いを嗅ぐと、ほっとして、緊張がほぐれるのです。

あるいは、お風呂に立ち込めた湯気の匂い。あるいは、外に干したあとのお布団の匂い。そうした好きな香りがあって、そこから、気持ちがほぐれていきます。

 

わたしのリラックスは、嗅覚から。

野生に生きている。

と、思う。

 

たしかに今わたし達は文明が発展した世界に住んでいて、野生とはかけ離れた生活をしている。

動物を追いかけて、槍でやっつけて、石を割って作った刃で肉を処理して食べていたあの頃。木の実を拾って食べ、掘って作った穴の中で寝ていたあの頃。服も風呂もまともになくて、動物と同じにおいを漂わせていたあの頃。

あの頃の彼らと今のわたし達との生活は、無論、ぜんぜんちがう。

 

だけど、不意に思うのだ。

わたしはやはり、野生に生きる動物と同じなんだな、と。

 

情緒不安定になる。なにかを食べたくなる。出血する。さらに情緒不安定になる。それがおさまる。しばらく経つ。やたらと肉体的欲求が高まる。それがおさまる。情緒不安定になる。

 

毎月、決まった日数で、このサイクルが循環する。ストレスがあれば、そのサイクルは延びる。からだは精神に素直で、精神はからだに素直だ。からだのサイクルを止めることも、それに伴う精神のサイクルを止めることも、わたしの意思ではできない。そしてそのサイクルは、繁殖のためにあるのだ。

 

なんて、野生的なんだろうと、思う。

 

文明は進歩し、日本では平均初婚年齢が上がった。子どもを作らない選択をする者もいる。なのにわたしのからだは、まだ結婚することもできない十代のころから、今に至るまで、そしてしばらく先の未来まで、繁殖のためのサイクルを回し続けるのだ。

 

アメーバが分裂して増えるように、動物が子をなすように、人間という種も存続のためには繁殖しなくてはならない。たとえ世の中がそれを至上の命題としなくなっても、からだはそれをわかっている。だからただ、サイクルを回すのだ。

黙々と。

からだの外側に広がる、わたしの人生など、なんの意味もない。

 

たとえわたしが結婚しようと、しなかろうと、仕事に生きることを決めようと、職を失おうと、食いに困ろうと、何もかもを諦めようと、何も関係ない。

からだには、その目的が達成されないこともわからない。

ただただ、繁殖するためのからだを整える、それだけのために毎月毎月同じ変化を起こしているのだ。

 

そのせいですっごくイライラするし、今日は情緒不安定で何度も泣きそうになったし、具合はわるいし、こんな辛い思いをして、今すぐにつくるわけでもない子どものための準備をしているなんて。

 

わたしのからだは、ほんとうに、野生に生きているのだと思う。しんどい!

行動しないと、居場所は得られない。

私は常々、人には居場所が必要だと考えています。居場所とは、そこにいる人が自分のことを拒絶しないとわかっていて、居心地が良く、安心できる空間や集団のこと。そして、精神の安定のためには、居場所は複数必要であること。居場所はひとりでいることも含むけれど、それだけでは不十分で、やはり他者からの受容が欠かせないものです。

だからこそ今の学生(特に中学生、だと思っていますが)は大変だと思うのです。朝8時に登校し、部活動が終わるのは夕方。そこから家に帰り、塾(学校の友達も通っている)に行き、帰宅して寝る。起きたらまた学校。居場所の中心が学校と家庭しかなくて、無関係な習い事でもしない限り、そこから広がっていかないのです。これでは、学校が居場所でなくなった瞬間、居場所の大半が失われてしまうのです。居場所がないほどつらいことはありません。

 

子供には複数の居場所があった方がよいと考えているわけですが、ふと、自分の居場所はなんだろうと振り返ると、ずいぶんと寂しいものでした。

・自宅や家族

・職場

・同期(同業者)

・大学の友人(同業者)

・サークルの仲間(同業者)

これだけです。しかも仲良くしているのは同業者ばかり。環境が似ているほど話も合うので当然と言えば当然ですが、仕事がなくなったら、もう私に居場所はないのかもしれません。そう思うと、なんとも言えない危機感に駆られました。

居場所を増やすと言っても、今の生活をそのまま続けていたら、増えるのは仕事のつながりばかりです。それはそれで人脈としては貴重ですが、ますます仕事への依存度が高まってしまいます。

依存度が高いということは、なくなったときのリスクが高いということ。仕事など精神を病んでしまったら辞めざるを得なくなりますから、そのとき居場所が他にないと、ますます精神的につらくなってしまいそうです。恋愛もそうですが、ひとつのことに依存するのはあまり良くない気がしています。(浮気をするという意味ではなくて。)

 

そこで、ウクレレを習い始めました。マンツーマンのレッスンですが、続けていると受講生同士の発表会もあるようです。同じ趣味をもつもの同士、互いに居場所になれるのではないかと期待したのです。

あるいは、単発の習い事をするようになりました。継続性はないけれど、同じことに関心をもつもの同士、集まって活動している間は居心地の良さを感じるからです。

また、美容院やカフェなどは、同じお店に繰り返し行くようになりました。別に常連になって店員さんと仲良くなりたいわけではなくて、ただお店の雰囲気や方法に慣れていると、落ち着いた気持ちで過ごせるからです。

こんなふうにブログを書いているのもそうで、もしかしたらそのうち、似たようなことを考えている人と緩くつながれるかもしれないという淡い下心があるのです。あるいは、同じように日記めいたブログを書いている人がたくさんいるというそれだけで、ささやかな仲間意識のようなものを感じます。

 

「受け容れてほしい」という言葉はとても受動的ですが、実のところ、居心地の良い場所は自分から行動しないと得られないものなのかもしれません。正直、新しいことを始めるのは不安で、億劫で、あまりしたくありません。でもそこに飛び込んで、仕事だけではない、新たな居場所を得ていくことが自分にとって必要なのだろうと思います。

翌朝は、サイダーを飲む。

「五月の連休って、こんなに暑いんでしたっけ。」「毎年、そういう声を聞いている気がしますね。」

昨日天気予報を見ていたら、予報士とアナウンサーがそんな会話をして笑っていたけれど、その通りで、去年の今頃がどうだったかなんて毎年忘れて、毎年暑さや寒さに驚いている気がします。人間の記憶って、ほんとうに儚いものです。毎日感じているはずの暑さや寒さも1年経たないうちに忘れ去ってしまうのですから、たった一度しか起きなかった、大切に覚えておこうと思った記憶も、両手からこぼれ落ちるように忘れてしまっているはずです。そう考えると、なんだか自分で自分のことがわからなくなります。

天気予報士は、ゴールデンウィークの陽気や雹の様子を伝えたあと、明日は立夏です、と締めくくりました。暦の上では夏。それにふさわしい青空が、頭上に広がっています。

 

洗濯物を干して彼の家を出て、自宅に帰ります。その道中、コンビニでサイダーを買いました。キャップを捻ると、しゅっと鳴る爽やかな音が、今日の青空、微かな暑さを吹き飛ばす風にぴったりです。

炭酸って喉にくるし、お腹にも溜まって膨れてしまうから、普段はあんまり買いません。けれど、たまに無性に飲みたくなることがあって、それはどんなときだろうと考えたとき、ふと、いずれも帰り道であることに気づきました。それも、彼の家に泊まった帰りとか、ホテルの帰りとか、要するに、男性とそういう行為に及んだ帰り道です。夜であったり朝であったり、夏だったり冬だったり、恋人だったり男友達だったり、状況は様々ですが、そういう日の帰り道は、炭酸を飲みたくなるんです。

 

ペットボトルを傾けたときのしゅわしゅわした弾ける泡の感触、それが喉を通る時の痛みに似た感覚、を求めるのは、私の一体どのような心なのでしょうか。その爽快な喉越しは、何か気だるい、汚いものを洗い流してくれるような心地があります。

私は好き好んで男性と寝て、それなりに満たされた気持ちで帰路についている気がしていましたが(時には酔いに任せてしまって、二日酔いでげんなりした帰り道のこともあったけれど)、もしかしたらそうではないのかもしれない。自分の家に帰る時まで彼らのことを持ち越したくないから、炭酸の清涼感が欲しくなるのかもしれない。帰り道に炭酸が欲しくなるような男性と、付き合っているのがいけないのかもしれない。

 

今の彼に何の不満もないはずなのに、こんな些細なことから自分の気持ちに疑念を抱いてしまうのは、私の悪癖です。

納得のいかないこと

学校に行けないことに対して、本当に何の気兼ねももっていない子どもは、そう多くはないと思います。やはりどこか後ろめたさを感じていたり、表向きは気にしていないように見えても、なんとなく落ち着かない気分でいたり。全く気にしないのならそれはそれで良いのですが、どこか引っかかる気分でいるということは、つまり心のどこかで学校に行けない(行かない)自分を否定しているのです。

うまくいかないとき、自分で自分を否定するのはつらいものです。でも、精神的に余裕のないひとが、自分で自分を許すのは、難しいものがあります。だから、うまくいかないときには、そんな自分を他者に肯定してもらう必要があるのではないでしょうか。

 

肯定できる他者とは誰か。「学校においでよ」と言うのは、肯定ではありません。それは行けない自分を追い詰める、責める言葉です。行けるならとっくに行っています。友達がいくら誘ってくれたって、それはあまり励みになりません。

保護者がその役割を果たせればよいですが、自分の子はかわいいものです。子どもに幸せになってほしいと願っていると、「そのままでもいいんだよ」という言葉をかけられないこともあるかもしれません。学校を休んでいれば友達とも疎遠になるし、成績も下がります。高校だって行けないかもしれません。そんな心配をすると、おいそれと「そのままでいい」などと言うことはできないのではないでしょうか。

スクールカウンセラーの先生などは、きっと受容の言葉をかけてくれることでしょう。しかし、カウンセラーの先生とつながることができるのも、全ての子供ではありません。そこまでではないから必要ない、と自分の現状を認められなければ、そうした機会も得られないのです。

 

どんな子供でも何らかの形で関わるのは、現状、学校の先生です。学校に行けばいるし、休めば、例え会えなくても家庭訪問をしてきます。子どもにとって先生とは学校を代表する存在であり、その先生が「つらいなら行かなくてもいいよ」と言ってくれたら、安心するのではないでしょうか。

納得いかないのは、実際に現場の先生が「つらいなら……」という声かけをするのは、見捨てられたと保護者の方に誤解されたら困るからタブーであると、内部から批判されていることです。あるいは、来なくていいよと声をかけると本当に来なくなってしまうから、言ってはいけないと言われるそうです。私はもし一時的に学校に来られなくなったとしても、先生が味方であるという姿勢を示して、安心感を与えることの方が重要なのではないかと考えているのですが、立場上それはいけないことらしく。

 

もっと学校という場が、イレギュラーを認められる、あたたかな場であればよいなと思います。

夕焼けの空は、おおきな虹である。

「虹の根元には、宝物が埋まっている。」

 小さい頃、童話が好きでよく読んでいました。アンデルセン童話やグリム童話、その他各国の民話など、図書館で借りて次から次へと手にしていました。「虹の根元には、宝物が埋まっている」という言葉をどこで聞いたかは覚えていないけれど、それはもう常識として私の身に染み付いています。なにか虹というものは、幸せを与えてくれるものだというイメージがあるのです。

虹は美しく、儚いものです。雨上がりのほんの一瞬、湿った空気を太陽光が照らしたときに現れる7色の橋(国によって色の数や種類は違うそうですね)。昔の人が虹に思いを馳せ、「遠くに見える虹の根元には宝物がある」と考えたのも納得できます。実際にはどんなに歩いても虹の根元には辿り着けないわけですが、それが余計に神秘さを増すのでしょう。

 最後に虹を見たのは、いつでしょうか。幼い頃、庭の水やりに使うホースの先端から霧状の水が出るようにして、それで虹を作って遊んでいたのを思い出します。そんな小さなお手製の虹でも、当時は幸せを感じたものでした。

私は夕暮れの、薄ぼんやりと橙色に染まった空が好きです。頭上にはもう夜が来ていて、群青色から、地平線の太陽の赤に向かって少しずつ色を変えていく空の表情が好きです。あれは、毎日見ることのできる、大きな虹だと思っています。

 

私たちは毎日虹を見ているのに、そのことに気づけていません。

 

以前、失恋して落ち込んでいる友人を連れて、砂浜を散歩したことがあります。いかんせん人と関わるのが上手ではないので、どう言葉をかけたらいいのかわからなくて、「空は虹なんだ」という話をしました。空いっぱいに見える虹を見ていると、自分の悩みなんかちっぽけなものに思えるよ、って。言葉にすると思いがはっきりすることは往々にしてよくあり、私は友人にそう告げると同時に、だから自分は夕焼けの空が好きなのだということに気づきました。

私の好きな言葉のひとつに、「明珠在掌」があります。詳しくは知らないのですが、「明珠(宝物)は既に掌に在る」のに、人はそれに気づかず、宝を探し続けてしまっている、というような意味だそうです。幸せは既に手の中にあるのに、それに気づいていないということ。

隣の芝は青いというように、自分の持っていないものほど、すばらしいものに見えます。あの人は英語が喋れていいな、とか。あの人は素直に自分の感情を表現できていいな、とか。あの人は恋人に愛されていていいな、とか。そうやって人と自分を比べてしまうと、だんだん辛くなります。

あの人は悩みがなさそうでいいな、と羨むのは、きっと違います。本当は、「いいな」と思っている人たちにもそれぞれ悩みがあり、その中で折り合いをつけて満足しているから、傍から見て幸せに見えるのでしょう。

どこか「完璧な」幸せを探して現状に不満を抱いているうちは、まだまだだな、と自戒の念を込めて。でも、治したいことも欲しいものも、まだまだたくさんあって、煩悩を捨てきれません。やっぱり幸せそうな「あの人」は羨ましいです。

視野の狭さを自覚すること。

高校生の時、家庭科の先生が大嫌いでした。なぜかというと、その先生が授業のとき、「反抗期がない子どもはおかしい」と言ったからです。

 

「反抗期がない子どもはおかしい。私も前にそういう生徒を教えたことがあるけど、やっぱりおかしかった。」

 

私はその言葉に衝撃を受けました。私は、母から「あなたは反抗期がなかった」と言われて育ってきたのです。この先生は私には何も言わないけれど、内心ではおかしいと思っているのだろうか?

その学期の授業が終わるとき、私はどうしても納得がいかず、フィードバックの用紙に「先生は『反抗期のない子どもはおかしい』と言っていましたが、私も反抗期がないと言われて育ってきました。私もおかしいのでしょうか。」と書きました。こう書いたことによって、この先生はますます、「反抗期のない子どもはやっぱりおかしい」と思うのかもしれないな、と思いました。

それに対する反応はありませんでしたし、そもそも何人もの生徒を教えている先生が、その感想を読んだかもわかりませんけれど。

 

教育学部で勉強をして、また周囲の友人とその親との関係を見て、私自身もたしかに、「子どもが素直に反抗できない親子関係」は不健全であると感じています。しかし、その関係を作ったのは子どもだけではありません。親にも責任があるはずです。「この人は反抗しても最終的には受け止めてくれる」という絶対的な安心感を、与えることのできない親。そのことを棚上げにして、専門家である家庭科の先生が、「反抗期のない子どもはおかしい」という極端な表現を使って生徒に話をするのは、いかがなものでしょうか。

未だに私はふと、家庭科の先生の言葉を思い出します。そして、「だから私はおかしいのかな」と、そのおかしさを生み出した原因のひとつである母を恨めしく思います。

 

私自身が自分がかけられた言葉をもとに考えてしまっているように、やはり人は、自分の経験に基づいてしか考えられないものです。そのことに気づくことが大切です。自分は、自分が見てきた世界しか見えていません。人には、その人が見てきた世界しか見えていません。なのに、自分の世界からはみ出るものを理解できないと、「おかしい」とか「よくない」とか断じたくなります。

自分の見ている世界の狭さを認識し、他者を否定せず「そういう考えもあるよね」と受け入れられる人こそが、私の理想です。